蒼 い 夜


青白い月光の下、弥勒はある廃寺に向かっていた。
口許はきつく引き締められ、その眼は闇に吸い込まれそうなほど、暗い。
目指す寺は、長年の風雪に耐えられず朽ち果てていた。
(形あるものは、結局こうなるのか……)
めぼしいものはすでに野党どもに奪い去られたのか、寺の中はがらんとしていた。
壁や天井の裂け目から差す月の光が、御堂内を仄かに照らす。
その光が届かぬところに座り、封印された右手に視線を落とす。
呪いの風穴。やがては自分をも飲みこむことに……。
仲間を救うために風穴を開くことに躊躇はないが、その度、命は削られていく。
父の壮絶な最期、一片の骨さえ残さず消滅したその姿は、未だ弥勒の脳裏に焼き付いている。
(どうせ死ぬんなら、愛しいおなごの胸に抱かれて死にてえよなぁ)
弱気になる自分を冗談で紛らわそうするが、すぐに現実が引き戻す。
(飲みこまれるくらいなら、いっそここで……!)
その時、背中に妖気を感じた。咄嗟に錫杖をつかんだが、(これは……) 動きが止まる。
知っている、この妖気……。
殺生丸……。


敵の行方が、ようとして途切れた。
最初は鉄砕牙を手に入れるため、やつの企みに便乗した。その後も己に手出しをしてきたが放っておいた。
しかし、己の庇護下にある少女をさらい、己を意のままにしようとした姑息さに怒りを覚えた。
何度か追い詰めたが、敵ははあと一歩のところで巧妙に逃げ延びる。
その敵の臭いが、ふっと消えた。
僅かな手掛かりを求めて、五十年前、やつと戦った僧侶がいたという寺に向う。
寺は森の奥にあるのか、まだ見えない。が、人間の臭いがする。
この臭いは、あの法師……。


「兄上殿か……」
錫杖を再び床に置き、ゆっくりと向きを変える。
相手は驚きもしない。やはり俺の居ることなんて、疾うに知っていたか。
「何故、きさまがここにいる?」
それはこっちが聞きたいくらいだ、と思うが、聞いても無駄だろうな、と苦笑する。
「ここは私の祖父の寺でした。祖父も父も亡くなり、幼かった私は他の寺に預けられました。今は継ぐ者もなく、ご覧の通り、荒れ放題ですよ」
「五十年前を知る者は、もういないのか?」
「五十年前……? ああ……それで兄上殿はここへ来られたのですね。残念ですが、ここはもう何十年も人が住みついていません。兄上殿のお役に立てるものはないでしょう」
「きさまも五十年前の事は、知らんのか?」
「私が知っているのは、祖父がやつに敗れて呪いの風穴を穿たれた。そしてやつを倒さない限り、この呪いは代々受け継がれ一族を絶やすことになる、ということだけです」
やつを倒すのが先か、この風穴に飲みこまれるのが先か……。
「あるいは……」 己に語りかけるように呟く。 「自ら呪縛を断ち切るか……」


求める手掛かりがない以上、殺生丸がここに留まる理由はない。
踵を返して立ち去ろうとする殺生丸に、弥勒はふと、声をかけた。
「兄上殿は……」 一旦、言葉を切る。
「兄上殿は死ぬことを考えたことがありますか?」
「死ぬ……だと?」 足を止め、振り返る。
「……いや、愚問でしたね……」
弥勒はそれきり口を噤んだ。
「どういう意味だ?」 再び殺生丸が問う。
その問いかけに弥勒は、はっとした。


(俺は、何を言おうとした?)
弥勒は今まで、誰に対しても自分の心の内を語ろうとしなかった。この宿命に逆らえぬのなら、誰にも心を残さず、誰の心も受け取るつもりはない。優しい言葉や、思いやりが生への執着になるのが、怖かった。
だが、今夜、弥勒を襲った孤独の闇は深かった。誰か側にいてくれ、と思った時、殺生丸が現れた。
己の心情を吐露して楽になりたかった。
そんな相手には、却って殺生丸がいいのかもしれない。
ありきたりの言葉や同情など煩わしい……。


「この風穴は、生まれた時にすでに穿たれていました」
殺生丸に視線を戻す。やはり、自分の身上など興味はないか……?
だが、殺生丸は黙ったままだった。
弥勒は再び目を外に向け、己の過酷な運命を、ただ淡々と話す。
「差し違えてでも倒す覚悟はできています。ですが時々、どうしようもないくらい……」
語尾が震える。感情を抑えるように、大きく息を吐き出す。
「それで、たまにこうして祖父や父のいた寺に来て、まぁ、喝を入れてもらうというか……。なのに今夜は、どうにも気持ちが……」
最後は、己の右手を凝視し固く握りしめた。


「……くだらんな」
その嘲りを含んだ言葉に、弥勒は一瞬、虚をつかれたような顔をした。
「何と、申された……?」 静かな口調だが、瞳には怒りがくすぶっていた。
「くだらん、と言ったのだ」
その瞬間、弥勒は殺生丸の胸元を鷲づかみにし、壁に叩きつけるように押しつけると、激しく言い放った。
「あんたに、何がわかるってんだよ!俺が今までどんな思いで生きてきたか……それをそんな言葉で片づけて欲しくねえんだよ!」
ばかやろう……殺生丸の胸に頭をあて、涙声で罵った。
暫くそのままにさせていたが、殺生丸は軽く弥勒の手を払いのけ、壁際から離れた。
弥勒はそのまま座り込み、肩を震わせていた。
「きさまの覚悟はこの程度のものだったのか?だとしたら……!」
今度は殺生丸が弥勒の胸元を掴み、壁に押しつけた。
「きさまという奴を見損なったぞ!少しはましな奴かと思ってたが、所詮人間とはこの程度か!」
殺生丸は叩きつけるように、その胸元を離した。
転がるように倒れた弥勒は、片足を投げ出し、ただうなだれていた。
「あんたには、わかんねえよ。あんたほどの強さがあれば、そりゃあ何とでも言えるよ。だけど、俺は人間なんだ。あんたの言う、所詮弱い人間なんだよ……」


殺生丸と弥勒の前を、時間と静寂が流れる。
「法師」殺生丸が振り向く。その声に嘲りはない。
「真に覚悟を決めた者に、死など問題ではない。己の信条を貫くのみだ」
弥勒は、はっとして顔を上げた。
初めて、殺生丸を理解したような気がした。
その他者を寄せつけない清冽さは、ただ妖力が強いだけではない。その精神こころの強靱さゆえ弱きものを嘲り、冷酷と言われようが孤高の道を行く、それが殺生丸なのだ。
俺は……。
誰にも心を残さず、誰の心も受け取るつもりがない、だと?
ありきたりの言葉や同情など煩わしい、だと?
結局は、死ぬのが怖いだけじゃないか。俺の覚悟なんてこの程度のものだったのか。
誰よりも救いを求めていたのは、この俺だ……。
殺生丸の言う通りだ。くだらん奴だよ、俺は……。


(人間ごときに、余計なことをしたものだ)
殺生丸は胸の内で、嘲笑った。
弱いくせに虚勢をはったり、かと思えば戯れ言をわめき、己を正当化しよとする愚かさ。
他者に依存しながら、いざとなれば己の保身のみ考える狡さ。
そんな人間どもを見てきた中で、弥勒に対しては、たかが人間ごとき、という言葉で排除できない何かを感じてた。
だが、結局、この法師もただの人間か、と思ったとき失望し、己の浅はかさを罵った。
それでも無視できず、あのように感情を出してしまったのは、やはり弥勒という人間を、ひとりの男として認めたかったからかもしれない。


「この寺も、やはり無駄足だったようだな」
そう言って殺生丸は御堂から出ようとして、ふと立ち止まり弥勒の名を呼んだ。
「私の胸元を掴み、あれほどの暴言を吐いて、命があったのはきさまぐらいなものだ」
その声はどこか面白がってるようでもあった。思わず弥勒の顔に笑みが浮かぶ。
「光栄ですね。では、この命、無駄にはできませんね」
「そういうことだ」
それきり、殺生丸は森の闇に消えていった。


やがて弥勒も立ち上がり錫杖を手に取ると、殺生丸が消えた方向に目を向けた。
その瞳に闇はもう、なかった。