生命いのちの響き


殺生丸が曲霊を追うため虚空に駆け上がり、そしてその姿は彼方へと消え去っていた。
いつものお留守番。
りんはそう思い込もうとした。そうしなければ、胸に渦巻く不安を振り払えない。
背中を向けられたまま、残れと言われた。その背中に言いしれぬ不安を覚えた。だから思わず、「一緒に行く」 と口をついて出た。
それでも殺生丸は振り向かず、背を向けたままだった。
邪見も一緒に残してはくれたが、それよりも何か、安心できるものが欲しかった。言葉じゃなくてもいい。りんを見て欲しかった。
――必ず戻る。
瞳でそう語ってくれるだけでよかった。
――早く帰ってきてね、殺生丸さま。
りんは去りゆく後ろ姿に、そう思うしかなかった。


あれから何日たったのだろう。
あの日以来毎日、かごめは祈るような気持ちで琥珀の欠片に触れていた。けれど欠片は浄化されず、琥珀も意識を取り戻さないままだった。
「殺生丸の野郎、何してやがるんだ!」
苛立ちを押さえきれない犬夜叉が、八つ当たり気味に壁を叩く。
「やめなさい、犬夜叉!」
弥勒がこの男らしからぬ声音で、犬夜叉を窘める。視線の先にはりんがいた。ふたりの声が届いたのか、届かなかったのか、りんはただ膝を抱え俯いていた。
そんなりんの様子を見た犬夜叉は、さすがに自分の大人げない言動を省みた。この子だって琥珀のことは心配してるし、何よりも殺生丸がいない寂しさに耐えている。
「わ、悪かったな。大きな声を出しちまって……」
「ううん、りんは大丈夫だよ。殺生丸さまはきっと曲霊をやっつけるから、琥珀だって大丈夫だよ」
りんは犬夜叉たちに笑顔を向けたまま、立ち上がると外へと出ていった。
様子を伺うまでもなく、犬夜叉たちはりんが何をしに行ったのか知っていた。
殺生丸が去った空を見上げてる。決して口にしたり、涙を見せることはなかったが、小さな背中は必死に何かを訴え、耐えていた。
「本当に殺生丸が好きなのですね……」
弥勒がぽつりと呟く。断片的ではあるが、殺生丸とりんの関わりは耳にしていた。最初はひっくり返るくらい驚いたものだが、最近ではそれが当たり前のように思えていた。
それでも間近でこうしたりんの姿を見ると、何か心に迫るものがあり、あの妖と少女の、常人の思惑を超越した深い結びつきを感じ得ずにはいられない。
突然かごめが、あっと声を上げた。
何気なく差し出した手に欠片が反応したのだ。
「琥珀!」
一番に珊瑚がかけ寄り、続いて他の面々が琥珀を取り囲む。
琥珀は自分を見下ろす顔をひとりひとり確認すると、皆を安心させるように笑顔を見せた。それからその輪の中に加わってない顔に気づき、「りんと、……殺生丸さまは?」 と尋ねた。
かごめは頷いて見せ、りんを呼びに外に出ていった。その間に弥勒から事情を聞いた琥珀は、笑顔で戻ってくるりんに向かって、「ごめんな。おれのせいでりんまで置いてきぼりくっちゃって」 とりんの心情をおもんぱかる言葉をかけた。
「よかったね、琥珀。殺生丸さまが琥珀のために曲霊をやっつけたんだよ。殺生丸さまが帰ってきたら、また一緒に行こうね」
また一緒に――その言葉にそれぞれが複雑な表情を見せるが、素直に喜ぶりんを見ているとそれ以上は何も言えなかった。珊瑚さえもただ黙ってりんに微笑むだけだった。


だが、日が過ぎても殺生丸は戻ってこない。だんだんりんの笑顔が翳っていく。犬夜叉たちにも不安が広がる。皆、まさかとは思いながら、それでも口にするのは憚られた。


「いったい殺生丸の野郎、何考えてんだ?」
それまでりんを気遣い口を噤んでいた犬夜叉だったが、我慢の限界を超えてしまった。当然怒りの矛先は、邪見に向く。そして今度は、弥勒も加勢した。その胸ぐらを捕まえると、不良法師の本領を発揮する。
「おう、ちっせいの! てめえの主人は何してんだ? おれの気が短けえことは知ってるだろう。さっさと殺生丸を連れて来い!」
「と、言われましても、わ、わしもどうしてよいのか……」
「ちっ、使えねえな。――こうなったら犬夜叉、おまえの出番ですよ」
「おれ?」
「殺生丸を探せるのは、おまえしかいないでしょう」
分かり切ったことを言わせるな、さっさと行動に移せ、と言わんばかりに犬夜叉を急き立てる。
「私も行く」
いや、かごめさまは……と思ったが、りんの気持ちを代弁させるには適任かと思い直し、それではと、三人で探しに行くことにした。
「わしも……」 と言いかけた邪見には鋭い一瞥を与え、りんの側にいてやれ、と言い残した。


遠く離れた場所で、殺生丸はりんを置いてきた人里に眼を向けていた。金の眸からは何の感情も窺い知れなかった。
曲霊を己の手で仕留めることを決めたときから、――いや、爆砕牙を得たときに、己の心は決まった。
真の己の刀。闘う武器。
それは己の本分が闘いのなかにあることを意味している。
そんな私が、どうしてりんを連れて行けようか。あまりにもか弱く、あまりにも愛おしいものを、どうして闘いの渦中に引き込めるというのだ。
りん――闘いに身を置く私についてきてはならぬ。おまえはこのまま人の世で生きてゆけ。
それでも耐え難い思いを断ち切れず、殺生丸は背を向けることが出来ないでいた。
何を思い煩う。
踵を返そうとしたとき、やっかいな奴らのにおいがした。殺生丸はちっと舌打ちする。己の不甲斐なさが奴らを呼び寄せ、戯れ言を聞く羽目になるとは。
だが、いざ殺生丸と対峙した三人はその眸の圧力に暫し声が出なかった。
暫く無言の睨み合いが続く。
先に動いたのは殺生丸だった。はっとして犬夜叉が殺生丸の肩に手をかけ引き止める。
「待てよ! おまえ……あの子を置いていくつもりか?」
犬夜叉にされるまま、しかし、殺生丸は何も答えない。
「りんちゃん、ずっと殺生丸のこと待ってるのよ。いつまでたっても帰ってこないから、りんちゃん可哀相に……」
涙声になったかごめに一瞬はっとするが、「じきに慣れる」 ひどく冷たい言い方だった。
「て、てめえやっぱり置いていくつもりだな! 自分で助けた子だろう。最後まで面倒見ろよ!」
もはや頭に血が昇り、犬夜叉は殺生丸に掴みかからんとしていた。殺生丸は、「きさまになど頼んでおらん」 とその手を軽く払いのける。
ところが今度はかごめが詰め寄った。
「殺生丸のばか! わからずや! りんちゃんの面倒を見るのがいやで言ってるんじゃないのよ。あんたがどう思ってるか知らないけど、りんちゃんはね……りんちゃんはあんたと一緒にいたいだけなの! それを自分の勝手で残れだの、帰れだのって……」
かごめは嘗て自分が犬夜叉にされたことを思い出していた。殺生丸が鉄砕牙を奪いに来たあと、危険な目にあったかごめに帰れと、犬夜叉の勝手に決められた。あの時の犬夜叉の気持ちをわからなくでもないが、それでも自分の気持ちを無視したことに腹が立った。
「ほんとっにあんたたち兄弟はそっくりよ! 女の子の気持ちなんてちっともわかろうとしないで、自分だけ格好つけちゃって! 女の子っていうのはね……」
興奮してさらに何か言いかけるかごめを、まあまあと弥勒が止めに入る。そしてかごめと殺生丸の間にすっと身を滑らせた。
「あなたが何を思ってりんを残していくのかは、聞かなくてもわかります。かごめさまじゃないですが、やはり血は争えないと言うか――」
弥勒は面白そうに笑う。殺生丸の眉がぴくりと動くが、弥勒はまったく動じることなくさらに暴言ともとれる言葉を吐く。
「だけど、あなたも随分と弱気になったものですね。たかが幼子ひとりも守れないとは。真の大妖怪の名が泣くというものでしょう」
殺生丸の目がすっと細まり、剣呑な妖気がまわりを覆う。
「言いたいことはそれだけか?」
殺生丸の右手の爪が鋭くなる。しかし弥勒は怯むことなく、逆に殺生丸に近づく。
「殺しますか? そうでしょうね、あなたにしてみれば何人を殺すのは容易いことだ。それだけの力を持っている。――けれど、その逆もまた真なりです。もし私の言葉が間違いであれば、その時は私の命を好きなようにすればいい」
殺生丸は長い時間、弥勒を見据えた。弥勒も目を逸らさずにいた。やがて口の片端をあげ、にやりと笑う。
「きさまの口をいつか封じてやる」
それだけ言い残し、殺生丸は三人の前から疾風の如く飛び去った。
「今、殺生丸……冗談を言った……?」
かごめが信じられないという表情になる。犬夜叉は何がどうなったのかさっぱりわからない、という顔をしている。
「いったい何がどうしたんだ?」
弥勒は振り返ると、にっこり笑って見せた。
「おまえと殺生丸は、結局は兄弟なんですよ。思考回路がまったく同じときてる。面倒をかけさせるところまで一緒ですよ」
ただし殺生丸の方は、自分の猿芝居に付きあい、わざと挑発にのるふりをしたが。それでも手間がかかるのは同じだ。
弥勒は心の内で、大いに笑った。


泣くことをずっと我慢していたりんも、もう我慢することをやめた。我慢しようにもあとからあとから涙がこぼれて、着物の袖はすっかり濡れそぼっていた。
殺生丸さまが曲霊を追って行ったとき、あんなこと思わなければよかった。変なこと考えたから、こうなちゃったんだ……。りんが信じなかったから、殺生丸さまは怒っちゃったんだ……。
りんがまた新たな涙にくれていると、琥珀がやって来て隣に腰を下ろした。
「大丈夫だよ、りん。殺生丸さまはいつだっておまえのところに来てくれたじゃないか。奈落に攫われた時だって、白霊山の時だって。――今度も必ず来てくれるよ」
「でも、りんが悪いこと思ったから殺生丸さまは……」
「それじゃ信じればいい。りんはいつも殺生丸さまを信じてたろう?」
こくりと頷く。
「そうだよ。それでいいんだ。必ず殺生丸さまは来るから」
「うん、そうだね。殺生丸さまはきっと来るよね」
りんの顔に笑顔が広がる。
絶対来る。琥珀もそう信じて、りんと一緒に空を見上げた。
その時――。
あっ、ふたり同時に声を上げた。次の瞬間、りんはすでに駆けだしていた。琥珀は嬉々として行くりんの背中に言葉の代わりに笑みをおくる。
「殺生丸さま!」
仔犬のようにじゃれつき、殺生丸を見上げる。殺生丸はりんの頬に残る涙のあとを、左手で拭う。
りんは無意識に殺生丸の左腕に身を寄せ、抱っこをねだる仕種をしていた。一瞬驚いた殺生丸だったが、何も言わず左腕でりんを抱き上げる。
りんはそっと殺生丸の胸に顔を埋め、あっ――と小さな声をあげた。
どうした? 殺生丸が金の眸で覗きこむ。
「殺生丸さまの胸……どきんどきんっていってる……」
初めて聞く、殺生丸の胸の鼓動。力強い生命いのちの響き。
とくん、とくん……。命を刻む音は絶えることなく繰り返される。
大きな安心感が、ゆっくりとりんの全身に流れ込む。殺生丸のぬくもりがりんを包み込む。そして、赤子が母の心音に微睡むように、りんのまつげが徐々に頬に影を落としていった。
ふと顔をあげると、真っ直ぐな眼差しの少年と目が合う。りんと同じ、己を信じる眼差し。
来るか? 無言で問うと、琥珀は振り向き、佇む姉に視線を向ける。珊瑚は黙って頷く。
踵を返した殺生丸のあとに、琥珀が続き、邪見が慌てて追いかける。
「琥珀を行かせてよいのか?」 楓が聞く。
「はい」 あの妖なら――。
彼らの姿は、今はもう森の奥へと消えていた。