Karman


因縁の戦いは終わった。
それぞれの胸に去来する想いを映す空は、どこまでも蒼い。そして珊瑚の心もまた。
悔いはないかと問われれば――。
僅かに目を伏せ、手に持つ飛来骨に視線を落とす。
退治屋の里に生まれ、退治屋として生きようと決意したあの日、父の言葉に誓いを立てた。
『殺していい命などひとつもない。だが殺さねばならぬ命もある。――ただひとつ。己の欲で命を奪うことだけはあってはならない』
だから一線を画してきた。一族の誇りと己の矜持をもって、殺るのは邪悪のみ、と。
だけどあの時、自分はその一線を越えてしまった。
静かに飛来骨を地に放す。
二度と愛するひとの腕には戻れないけれど。
さわり、と風が吹き抜け、熱い雫をさらっていく。
それでもあなたが生きているのなら。
覚悟の眼差しをかの妖に向けた。最後に償うべき罪。
「姉上……!」
刹那に胸が震える。
この命に未練はないけれど、心が操られてたとはいえ、生きることを許されてもなお、その瞳の愁いが消えない弟を残していかねばならないことだけが辛かった。
(ごめんね、琥珀。おまえの側にいてやりたかった……)
こぼれ落ちそうな涙を必死にこらえ、笑顔を作る。
(だから、強く生きて……)


ひたと視線の先を殺生丸に合わせたまま、珊瑚は足を踏み出した。風はそよともせず、地上の生き物すべてが息を潜めてるような重い静寂の中、草を踏む乾いた音だけがこだまする。
つと、殺生丸が邪見に視線を動かした。さすがにこの時ばかりは邪見も異様な空気を感じ、主の無言の指示を察した。りんもまた、かつてない厳しい眼差しの殺生丸に何かを感じ、邪見に促されるまま、物陰に身を潜める。
やがて珊瑚の歩が止まり、寸時、完全なる沈黙がまわりを支配した。
次の瞬間、微かな風切り音とともに、一閃が珊瑚の体を斜に走る。一瞬の出来事に――殺生丸を除く――その場の全員が凍りついた。
(本気の覚悟か――)
前触れなしの抜刀とはいえ、退治屋の習性は咄嗟に身を守る。だが、微に動かず、一歩も退くことなく、珊瑚はそこに立っていた。
覚悟を秘めて。罪を償なわんとして。
(――それだけは褒めてやる)
一拍ののち、珊瑚の体がゆっくりかしげる。薄れる意識の中で問うた。
――何……故……?
だが問いは声にならぬまま――意識が遠のいた。


「珊瑚!」
「姉上!」
弾かれたように犬夜叉たちが飛び出した。
いち早く珊瑚の元に駆け寄った犬夜叉は、すぐ後に続く弥勒に珊瑚を任せ、一直線に殺生丸に詰め寄ると、その胸ぐらを鷲づかみにする。
「てめえ、何しやがる!」
犬夜叉の憤怒に些かも表情を崩すことなく、殺生丸が鬱陶しそうに手を払い除ける。それが余計に犬夜叉の怒りを煽った。
「この野郎……っ!」
犬夜叉が怒り心頭で鉄砕牙の柄に手をかけたその時。
「待ってください!」
その手を止めたのは、――琥珀だった。
「なっ……!」
一瞬怒りさえ忘れ、呆気にとられたように琥珀を見る。琥珀……? 犬夜叉が続けて何か言おうとした時、呟くような、しかしはっきりと聞こえた弥勒の声に、皆が瞠目した。
「珊瑚は……生きてる……」
弥勒は腕に抱き上げた珊瑚をさらに愛おしむように、胸に引き寄せた。
犬夜叉が殺生丸を振り返る。確かに殺生丸は珊瑚を斬った、はず――? 殺生丸は抜いたときと同じなめらかさで、剣をおさめた。
犬夜叉は目を瞠った。その手に握られていたのは――。
「天……生牙……?」


何がどうなってるのか、何を聞いたらいいのか、そこにいた全員が言葉を継げないでいた。
「何……故……?」
数拍のち、問うたのは琥珀だった。覚悟の眼差しを向けた娘と同じ瞳を持つ少年を、殺生丸は視線だけ動かして見るが、問いの答えはなかった。
「琥珀」
ふいに名前を呼ばれる。何があった? ――無言で弥勒が問うていた。
何故、姉が殺生丸に命を差し出したのか。その理由を告げるべきかどうか、琥珀は一瞬迷った。が、すぐに答は出た。
姉の愛した人には知って欲しかった。その上で、姉が犯そうとした罪を受け入れるか否かは、弥勒さま自身に委ねよう――。
琥珀はくっと顔を上げると、その事実を告げた。
「姉上は……りんを犠牲にしようとしたんです……。あなたのために……」
その場がしんと水を打ったように静まりかえる。
「奈落の幻影に惑わされ、りんを楯にされ、今この場で自分を殺さなければあなたが死ぬと言われ……」
語尾が震える。弥勒はそっと琥珀の腕に手を伸ばすと、穏やかな笑みで頷いた。
――ありがとう。
弥勒は腕の中の珊瑚に視線を落とした。そしてただひと言、珊瑚、と名を呼んだ。千の言葉を連ねるよりも、万の想いを語るよりも、深く優しい声で。
するとその声に反応したように、珊瑚が微かに身動ぎする。
「珊瑚」
温かい声に導かれるように、珊瑚の意識がゆっくりと覚醒していく。
「法師……さま……」
こぼれ落ちたひと言に、弥勒は黙って抱きしめた。


「試されたのですね」
殺生丸の双鉾が僅かに細められた。弥勒は静かに笑む。
「覚悟など、言葉でならいくらでも言える。表情さえ取り繕うと思えばできる。だが、心まで偽るのは難しい。だからあなたは隙を与えないことで、それを見極めようとした」
そしておそらく――。
少しでも珊瑚の目に怯えや迷いが走ったら、一歩でも身を退いていたら、殺生丸はすかさず腰にくもう一振りで、珊瑚を両断していただろう。
「だからと言ってこれで許されたとは思っていませんし、珊瑚の罪が消えたわけでもありませんが――」
弥勒はそこで一旦言葉を切ると、視線を珊瑚に移した。
「――生きよう、ふたりで。一生をかけて罪を償っていこう。私とふたりで罪を背負っていこう。それが――」
たったひとつ示した殺生丸の慈悲ならば。たとえ大海にこぼした一滴ひとしずくほどのものであっても、それにしがみつきたい。
「死ぬより辛いことかもしれない。それでも私はおまえに生きていて欲しい」
罪を承知の上で、荊棘いばらを覚悟の上で、生きて欲しい願う――。どこまで人間というのは欲深なのか。
(ならば、それを貫いてみろ)
風が、ふわりと銀髪を揺らした。


再び静寂が訪れた。しかし、もう先ほどのような重苦しい空気はなかった。
「殺生丸さま?」
りんがひょこっと物陰から顔を覗かせた。いつもの優しい眼差しの殺生丸にほっとし、殺生丸に、そしてくるりとこうべを巡らせた先にいた珊瑚と目が合うと、頓着ない笑顔を見せた。
笑顔はあまりにも強烈だった。
深い悔悟。恐ろしいほどの罪深さを思い知らされる。
この笑顔を、自分は奪おうとした。なんという思い上がり、なんという自分勝手。何の権利があって、少女の笑顔を、命を奪おうとした――。
「りん、許し……」
その時――。
すっと殺生丸が視界を遮った。金の双鉾に青白い焔がちろりとうごめく。
「一瞬でもりんの心を乱すのは許さん」
芯から凍りつくような、殺気を孕んだ声音。
許しを請えば、何故? とりんは問う。けれど真実は時に人を傷つける。それでもこの少女はすべてを受け入れ、再び笑顔を向けてくれるだろう。だからこそ、殺生丸は守り抜く。一瞬でも、少女の笑顔に翳りが落ちないために。
許しを請うことを許さない――それが殺生丸がたったひとつ示した慈悲と裏表の、たったひとつ下した罰。それが一生背負っていく罪。


涙が――頬を伝った。