雲 居 遙 か


りん、本当に逝ってしまったんだな……。
わしは神も仏も信じとらんが、おまえをこんな目にあわせるとは、恨みもしたくなるわ。
出来ることなら、わしのこの命、全部おまえにやってもいいとさえ思った。
もう自分でも忘れるくらい、長く生きてきた。
りんと殺生丸さまがずっと幸せでいられるなら、残りの命など未練はないわ。
なのに、こんなわしが生き長らえて、おまえがこんなに早く逝ってしまうとはな……。


おまえは変な娘だった。
長年お仕えしておるこのわしでさえ出来なかったこと、殺生丸さまのお心にすっと入ってしまった。
もちろん、殺生丸さまが気づかれたのは、ずっと後のことだがな。


いつか聞いたことがある。
いや、もちろん直接じゃないが、そんな大それたこと出来るわけなかろう。
御母堂さまと殺生丸さまのお声がして、ふと足を止めた。
だから、立ち聞きではないぞ!
「やはり、連れてきたか」
殺生丸さまはお答えにならんかったが、ふん、とお顔をそらすのが目に見えたわい。
「あの時か……?」 あの時? 何のことだ?
「あの時、心に決めたのだな」
ようやく思い当たったわ。
りん、おまえは覚えとらんだろうが、冥界の中では大変だったんだぞ。
おまえは死んでしまうし、殺生丸さまは取り乱しておったし、いや、あんなお顔の殺生丸さまを見たのは、初めてだった。
おまえを連れ戻したものの、息を吹き返さないおまえを見て、殺生丸さまは今にも噛みつかんばかりの勢いで、御母堂さまに詰め寄った。
御母堂さまは、静かに殺生丸さまを諭され、そしたら、殺生丸さまのお顔から怒りが消えて、悲しい表情をされたんだ。
いや、本当にわしにはそう見えたのだ。
御母堂さまのお慈悲で、おまえの命が戻って、おまえが目を開けたとき、わしは、あの時の殺生丸さまのお顔を、決して忘れんだろう。
いや、その、なんと言うか、泣いておられるような……。
ほんの一瞬のことだった。
そうか、あの時殺生丸さまは気づいたんだな、りんが大事だって。
「父と、同じだな」
「私が、決めたことだ」
まったく、殺生丸さまにそう言わせるなんて、おまえはたいしたもんだよ。


不思議なことだが、思い出すのは、わしとおまえと殺生丸さまと、三人でいる姿ばかりだ。
殺生丸さまとふたりでいたときの方がずっと長いのに、その頃のことはさっぱり思い出せん。
まったくかしがましい子だったわい。
朝から晩まで喋って、おまけにほら、殺生丸さまはああいうお方だから、おまえの相手はわしばかり。
うるさいと思っとたが、いつの間にか、おまえが喋らんと妙に気になってな。
つい、腹が減ってんのか、具合でも悪いのか、なんて心配したもんだ。
わしが殺生丸さまからお仕置き、いや、ちょっと話が食い違ってしょんぼりしてると、側で一生懸命慰めてくれるんだが、あまりにもとんちんかんなことを言うもんで、いつの間にか笑ってたな。
もう一回、おまえの笑い声が聞きたいわ……。


不思議と言えば、おまえと殺生丸さまも不思議だった。
話すのはおまえばかりで、殺生丸さまといえば相変わらず、でも、なぁんか笑ってるような、いや、まさか……。
ああ、そんなことはどうでもいい、わしが言いたいのは、それでもおまえたちは、ちゃんとわかり合っていた。
あれだな、ま、似合いの……夫婦って感じだったな。


「邪見さま、子を頼みます」
おまえはそう言って、わしに手をつき、頭を下げた。
幼子を託していかなければならないおまえが、不憫で、不憫で……。
いやいや、泣いてる場合じゃないな。
りん、お子は元気だぞ。
殺生丸さまも……いや……殺生丸さまはまだ……。
だがな、お子がお父上を慕って這っていくと、殺生丸さまは優しいお顔で抱き上げなさる。
あんなお顔の殺生丸さまを、見られる日が来ようとはなぁ。
殺生丸さまに抱かれていたお子が、ふと、顔を上げて、そして白い雲に手を振ったとき、 ああ、りん、おまえはそこにいるんだな。そこで、殺生丸さまとお子を見守ってるんだな。
きっと、殺生丸さまも同じことお思いになったのだろう、暫く空を見上げておられた。


りん、大丈夫だ。殺生丸さまも直に元気になられる。
お子は日増しに大きくなるし、わしもお子の世話をせねばな、いつまでも泣いてはいられん。
だから、安心して見ておれよ、りん。