ねがはくば 花の本にて


私は幸せでした。
殺生丸さまを愛し、殺生丸さまに愛されました。
二度も呼び戻された命、そろそろ天にお返しするときが来たようです。


あなたと出会う少し前に、私は家族とそして声も失っていました。村人のお情けで辛うじて生き延びていましたが、そう、ただ生きてただけでした。
楽しいことも嬉しいこともなく、養ってもらうかわりのきつい労働の日々。
ようやく仕事から解放された後、森に行くのが私のささやかな息抜きでした。
そして……ひどい怪我を負い、動けないでいたあなたと出会いました。
私に向けられた金の眸で、人間でないことはすぐにわかりました。
怖くなかった、と言えば嘘になるけど、傷ついたあなたを放っておくことは出来ませんでした。
もう誰かが死ぬのを見たくなかったのです。
でも、食べ物を持っていっても、あなたは一蹴するだけ。
それでもあなたに早く元気になってもらいたくて、だからあの日も、殴られた顔を見られるのは恥ずかしかったけど、あなたのところに行きました。
「顔をどうした?」
ただそれだけの言葉がどれ程嬉しかったか、あなたは知る由もなかったでしょうね。
家族を失って以来、初めて我が身を案じてくれた言葉。本当に嬉しかった。
凍えていた心が溶けていくようでした。
狼が襲ってきたのはそんな矢先でした。絶望と恐怖の中で、最後に浮かんだのはあなたの顔。
そして暗闇……。
あなたの顔も、声も、全て消えた世界へ引き込まれようとしたとき、何かに抱きとめられ、眼を開けると、あなたの金の眸がありました。
そう、多分私はこの瞬間、あなたに恋をしたのです。そう言うとあなたは笑うけど……。


「まったくおまえは雛みたいなやつだな。目をあけて最初に見たものにくっついてきおって」
邪見さまは、よくこう言ってました。
確かにそうかもしれないけど、でもやっぱり少し違います。
あなたの腕の中で目覚めたとき、考える以前に浮かんだのは、私の居場所はこの腕の中。
でも、あなたについて行こうと決めたのは、私の意志でした。
旅の生活は楽しかった。
再び声を取り戻した私は、生来のお喋りで、あなたをうんざりさせたり、邪見さまからお小言をもらったり。
あなたや邪見さまと一緒にいるのが、嬉しかったのです。
時には長いお留守番の日もあったけど、寂しくなかった。だってあなたは帰ってくると知ってたから。
時々、恐い思いもしたけど、平気でした。必ずあなたが来てくれる、と信じてたから。
一緒にいることが当たり前だと思っていたから、この国に来るときも迷いはありませんでした。
あなたはただ一言 「来るか?」 と問うただけ。
私は 「はい!」 と無邪気に答えた。


夜風に誘われて、桜が舞ってます。
「風が冷たくなってきた。部屋に戻るぞ」
いいえ、もう暫く。今宵はこうしてあなたの胸にもたれて、桜を見ていたいのです。


殺生丸さま、覚えてる?もう何年も前、初めてあなたの閨に赴いた日のこと。
風に舞う花びらは、あの日の雪のようです。
この国に来て、私は少し大人になりました。
私はいつからあなたを、今までとは違う想いで見るようになったのでしょう。
意味もなく拗ねてみたり、無邪気を装って甘えてみたり。
ただあなたに会うだけなのに、着物を選ぶのに時間をかけたり、水鏡にふと目を落とし、髪を、襟の合わせ目を直している私がいました。
恋という言葉も、愛という感情も、ましてや男と女の営みなど知るわけもないのに、自然と込み上げる熱い想い。
恋に言葉はいらない。愛に理屈はいらない。
時季ときが来れば花が咲くように、女も目覚めるのです。
部屋の障子を開けたときの、あなたの驚いた顔。そして全てを理解したあとの抱擁。
私はとうとうあなたの元に、辿り着きました。


心はあなたを求めていたけど、男のあなたは、まだ幼すぎた私には生々しかった。
悲鳴をあげたいほどの恐怖に襲われ、思わずあなたの手を払いのけてしまいました。
そんな私をあなたは押さえつけ、けれどその瞳は、優しく私を包み込んでくれました。
私の脅えをぬぐい去るように、まぶたや頬、そして唇にその唇を移し、私の躰の力が抜けてくると、やがてあなたの唇は、首から肩へ下りていきました。
ふと、あなたの唇が私の肩の傷跡にとまり、あのときの狼か、と言って舌で撫でました。
幼き日の想いが一瞬にして蘇りました。私の居場所はあなたの腕の中。
この瞬間、私の脅えと恐怖は完全になくなりました。
今再び、あなたの腕の中で生まれ変わる。あなたの全てを受け入れることができました。


あの夜の白い夜着は、私の花嫁衣装でした。


幾夜もあなたと肌を合わせ、あなたの肌に馴染む頃、私は子を宿しました。
愛するひとの子を産み、母になる。これほどの喜びがあるとは知りませんでした。
子は日々育ち、私のおなかを蹴るようになりました。
けれど私は、子の成長についていけず、床に伏せるようになってしまいました。
お医者さまが看てくださったあと、あなたは険しい顔をして部屋に入ってきました。
「子は……あきらめろ……」
私は自分の耳を疑いました。子はあきらめろ? あなたの子をあきらめろと言ったの?
驚きで声も出ない私にあなたは、絞り出すような声で、
「私の強い血を受け継ぐその子は、おまえの養分を吸い尽くしてしまう。だから、りん……」
まるですべて自分のせいだと言うように、苦しそうに言いました。
「いいえ」 自分でも驚くくらい、すぐに出た言葉。
その昔、父と母はその命を賭して、私を守った。今度は、私が子を守ります。
「だめだ!」
珍しく声を荒げたあなたは、そのままきつく私を抱き締めました。
あなたの気持ちが痛いほどわかる。
でも殺生丸さま、最初で最後のわがままです。私はあなたの子を、産みます。


傍らで眠る、愛しい我が子。
今は夢を見てるであろう、金の眸。綿毛のような銀の産毛。何もかもあなたそっくりです。
「性格だけは、りんでありますように」 と言って、またあなたに睨まれていた邪見さま。
でもこの子は、邪見さまが大好きなのよ。
子をあやす邪見さまを見ていると、私は本当に幸せな少女時代を過ごしたのだと、感謝せずにはいられません。
あなたとはまた違う意味で、私を愛しんでくれました。
冥界から戻って息を吹き返したとき、一番泣いて喜んでくれた邪見さま。
何の恩返しもできないまま、今また、子をお願いしなくてはなりません。
あなたを産んで、ふたつの季節が過ぎました。
もっとあなたと過ごしたかったけど、叶いそうもないようです。
でもあなたには、偉大な父と、優しい邪見さまがいるから大丈夫よね。
そしていつか、この母があなたの父と出会ったように、あなたも愛するひとと出会えることを願うばかりです。


なんて温かい、あなたの胸。
いつまでもこうしてあなたに寄り添っていたい。


「逝くな、りん!」
薄れゆく意識の中、震えるあなたの声。頬に落ちる熱い雫。
殺生丸さま、泣いてるの……?
殺生丸さま……どうぞ悲しまないで。私は今とても幸せです。
あなたの腕の中でこんなにも安らかです。
想いが強ければ、魂は再び愛するひとの元に戻る、と聞きました。
長い時間ときを生きるという妖のあなた。必ずあなたの元に生まれ変わります。
かりそめのお別れだから、私は泣きません。
さようなら、殺生丸さま。魂を信じ、来世を信じて、あなたの愛した笑顔で旅立ちます。