小 夜 風


行燈の灯りが部屋をやわらかく照らしていた。
湯浴みから戻ったばかりなのか、りんの体からほんのりと湯の香が漂う。
殺生丸が部屋に入ってきた気配に、以前なら何をおいても 「殺生丸さま」 と駆け寄ってきた少女は、一心に針を動かしていた手先を寸時止め、僅かに顔を上げただけで微笑むと視線を再び手元に落とした。
あふれんばかりの笑顔で己を迎え入れたかつてに比べると、ずいぶんそっけなく見える態度だが、その瞳に深い愛情が宿っていることを、殺生丸は知っている。
老巫女が自分にりんを預けろと言ったときは正直頭にきた。けれど今思えばあの数年は、必要な時間ときだったのかもしれない。
心の裡は何を求め、何を欲しているのか。誰にも何にも惑わされず、ひとりで自分を見つめ直すための別離じかん。耳をすまし、心の裡を聞く――。
そうして選んだ答が今に繋がっているのだ。
そういう意味ではあの老巫女に謝辞のひとつでも送るべきところだが、りんはともかく己も試されたのだと思うと全く面白くないので、絶対言わないつもりだ。
そんな意地の悪いことを考えながら、殺生丸はりんの手元を照らす灯りの邪魔にならないところに座った。
こうした針仕事を始め、りんにひと通りの躾をしてくれたのもまた老巫女の功労だろう。さすがにこればかりは殺生丸には無理だ。りんがひと通りを身につけてくれたおかげで、他人に邪魔されることなく水入らずで過ごすことが出来るのだ。
この件に関しては礼を言ってもいいが、それについては今までりんが村で手伝っていた仕事に対し、かわりに邪見を貸し出しているので、それで相殺だ。
先ほどからずっとりんは針仕事に集中している。殺生丸の視線を察してるのは確かなのに、針を進める手を止める気はないらしい。深い愛情を宿すのも結構だが、これではつい、幼い頃のじゃれつくりんが懐かしくなる。
夜の帷はいくぶん濃くなっていた。
ふと、殺生丸は眉をひそめた。何かいつもと感じが違う。見慣れた風景の中の些細な違和感。
――ああ、そうか。
沈んだ闇に、りんの白い頸が朧ろに映えているのだ。
りんが頸を露わにしてるのは滅多にない。普段はおろし髪だし、湯浴みのあとの洗い髪もすぐに拭いてそのまま背中に垂らしている。今夜はそれが厚手の布にくるまれ、後れ毛が数本、揺れる炎に照らされ輝いていた。
露わになってる頸が艶めかしい。
「何?」
さすがにじっと見続けられて、りんが尋ねた。
「いや、別に……」
そう言いながらも、殺生丸はほつれ髪を指に絡め取る。指先が微かに頸をかすめ、りんはくすぐったそうに身を捩った。思いがけずその仕草は殺生丸を直撃し、つと唇を寄せてしまったが、
「針を持ってるから、だめ」
軽くかわされた。
「何を縫っているんだ?」
いささかむっとした声にりんは小さく笑い、最後の一刺しをして玉結びにした糸を歯で噛み切った。縫い上がった白い布を丁寧に手でしごき、殺生丸の眼前に広げてみせた。
「かごめさまに赤ちゃんができたの。それでおむつをさし上げようと思って、これを縫ってたの」
「ふん……」
異母弟たちのことなど興味がないとでも言いたげに、殺生丸は鼻をならした。
再びりんの手をつかんだとき、殺生丸はさっさと深山に奥入って人里とは縁を切るつもりだった。
――わずか五十年余。
己の一生からすれば瞬きよりも短い時間。りんと共に生きられるのはたったそれだけだ。変えられない現実とわかっていても、胸がちりちり痛む。
だからこそ、りんとふたりで濃密に過ごそうと思った。
だがふと、りんを村から連れ出した日の光景が蘇った。大人たちはともかく、子どもたちにはだいぶ慕われていたようで、りんと子どもたちは盛大に別れを惜しんでいた。
殺生丸にとって大切なものはりん唯ひとりだが、りんは人里で暮らした数年で大切な人々がたくさん増えた。それを断ち切ろうとする己はやはり酷なのか。


逡巡と決断は一瞬だった。


愛するものを何ひとつ、つかんだ掌から零すぬことのないように。わずか五十年余の短い時間なら、りんが精一杯幸せでいられるよう、すべてを与えよう。
……とは言っても、さすがに殺生丸が人里に住むことはできないので、ぎりぎりの妥協点として、いつでもりんが人里と往き来できるくらいの距離を置いた森の中に留まったのだ。


りんちゃんのこととなると本っ当に甘いのね、お義兄さん――何とでも言え。


「あれ……?」
裁縫箱をしまいかけたりんは手を止め、殺生丸の胸元を覗きこんだ。
「ここ、ほつれてる」
言われてその先を見れば、襟元にわずかなほつれがあった。衣紋掛けから適当に引き抜いたとき、どこかに引っかけてしまったのだろう。
「ついでだから今縫っちゃうね。ほんの少しかがるだけだから、そのままじっとしてて」
りんは手早く糸を取り出すと、先端を少しだけ歯でしごいた。糸を口から離すほんの一瞬、唾液がつ……と透明な糸を張り、切れる。
りんの手がほつれた箇所を掴んだ。瞼に残る直前の光景と間近に迫るりんの顔に、どきりとする。おまけに俯いているため、いやでも頸が視界に入ってくる。 たったこれだけのことで、腹部に燻ったような熱がじわじわと蔓延していく。さらに触れるか触れないかのところで逃げられた 先ほどの唇の感触まで思い出してしまった。
大きく息を吸って気持ちを落ち着かせようとしたのに、
「動いちゃだめ……」
制止する声さえ官能的に聞こえてしまう。
一体これは何の拷問だ……!
殺生丸が必死で堪えていると、不意にりんの唇が近づいた。小さくあけた口が糸を銜えるのを見て、糸を切るためだとわかったが、思わず体が反応してしまう。
「終わったよ」
小さな嵐を何とかやり過ごし、ようやく息がつけた。いつの間にか強ばっていた体の力を除に解いたそのとき、顔を上げたりんと目が合った。
りんの目が面白そうに煌めいていた。
「……わざとか?」
「ふふ……ん、さあ……?」