Silent Night


ある日突然、屋敷に東方とうほうのおひいさま、と呼ばれる姫が現れた。古くから仕える者の話によると、その姫は殺生丸の従姉にあたり、幼いときからの許婚だという。
姫の出現は屋敷の者たちが今まで何となく口にするのを避けていた話題を、一気にあぶり出すこととなった。俄然屋敷のそこここで、秘かに、かつ大胆にそれは囁かれ始めた。
(やはり、同じ犬妖族である東方のおひいさまが正式な奥方ということか)
(先代さまから溯る純血を受け継いでいるのは、もはや殺生丸さましかおらん)
(一族の純血を伝えるのは、嫡男としての務めだ)
(とすると、あの人間の小娘はどうなる?)
そこで話は止まり、それぞれが無言のまま顔を見合わせる。
りんが特別の存在らしいのは何となくわかるが、その一方で姫には慇懃な姿勢を崩さないでいる。そしてどちらに対しても、その立場については言明を避けていた。
そんな殺生丸らしからぬ曖昧な態度がさらに噂に拍車をかけていく。
(まさか迷っておられるのでは……?)
(馬鹿言え。なぜ迷わなくてはならんのだ。人間の小娘に何かあるというのか!)
(先代さまの倣いもあることだし……)
(先代さまが人間とお戯れになったのは、ご自分のお務めを果たされたあとだ)
(そうなればやはり……)
今やふたり以上集まればこの話題で持ちきりだった。


当然殺生丸も屋敷内で囁かれている噂は知っていた。殺生丸の中ではすでに明快な答が出ていることに対して、いちいち説明するのも面倒で放っておいたが、それをいいことにすっかり許婚然と振る舞う姫には煩わしさを感じ始めていた。
確かに以前、姫との間でそのような話はあった。その時は殺生丸も、一族の純血を守るためには将来そのような選択もあるだろう、とくらいには思った。
だがその後殺生丸が鉄砕牙を求めて長い放浪に出たため、いつしかその話は立ち消えとなり、殺生丸自身の記憶からも消えていた。
通常なら殺生丸がひと言申し示せば、それでことは解決する。ただ姫は一族の中でも殺生丸に次ぐ身分と血筋で、たとえ殺生丸でも軽んじていい相手ではなかった。それで無下にするのも憚られ、姫が自身で身の振りようを考えてくれることに期待したのだが――。
姫とて愚かではない。殺生丸の無言の拒絶は感じとっているはずだ。だが姫に諦める気配はなく、逆に傍若無人ぶりは増すばかりであった。
思わず苦笑いが漏れる。あまりにもそっくりな我が一族の誇りを忘れていた。
その身分と血筋から、姫の誇り高さは殺生丸並みである。人間の小娘と比べられて噂されること自体屈辱なのに、その上さらに殺生丸の心を認めるわけにはいかないのだろう。
今はまだ姫も素知らぬ振りをしているが、このような状態がいつまでも続くはずがない。遅かれ早かれ認めざるを得なくなる。そうして傷つけられた誇りは暴走し憎悪となって、その矛先がりんに向かうのも予想できる。
もう猶予はないか――。
そう思って立ち上がった時、ふと奇妙な違和感に囚われた。
あるのが当然で、改めて意識したことなかったあるべき匂いが、ない。
まさか、と膨れあがる疑惑の念を振り払うように、殺生丸はりんの部屋に急いだ。
力任せに開けた障子の向こうには、いつもならそこに住まう女主人にも似た、春の陽だまりのような空間に、今は寒々とした空虚の中、冷んやりと姫のにおいだけが残っていた。
「ずいぶんと不用心だな。何か気になることでもあるのか?」
背後から姫の面白がる声がした。
「りんに何をした」
「いきなり何をしたとは、ご挨拶だな」
「二度は聞かぬぞ」
剣を含んだ殺生丸の声音に動じる風もなく、姫は薄ら笑いを浮かべるだけだった。
「らしくないな、殺生丸。それほどまでに大事な玩具なら、蔵に鍵でもかけてしまっておけ」
「二度は聞かぬと言ったはずだ」
殺生丸の眸が不気味に光る。さすがに姫の表情も一瞬強ばった。
「何をいきり立っておる」
「……」
「まあよい。――ただ話をしただけだ」
含みのある姫の物言いに、殺生丸は無言のまま見返した。
「聞けば小娘の命、天生牙で救ったそうだな。なる程、そういう訳なら暫くは面倒も見ようし、多少の情も移るだろう」
そう言って姫は殺生丸から視線を外し、悠然とした足取りで脇をすり抜ける。飾り棚に並べられた小物のひとつひとつに指を滑らせ、「まだ女とも呼べぬ小娘ではないか……」 それが示すりんの幼さを嘲った。
やがてりんの生けた花の前で足を止めると、中の一本を引き抜いた。
「小娘は花を愛でるそうだな。何故だと思う?」
手の中で花を弄びながら話す姫の口調に不穏が漂うのを感じ、殺生丸は眉をひそめた。
「花も愛でれば綺麗に咲く。花も花なりに美しく咲いて恩に報いるというものだ」
殺生丸の微かに息を呑む声を聞いて、姫はゆっくりと振り向いた。
「どうした? 図星で声も出んのか?」
姫は満足げな笑いを浮かべ、手にした花の花びらを一枚一枚千切っていく。
「だが花はいつか散る。散ってしまえば――」
それ以上言わせるわけにはいかなかった。りんが受けたであろう衝撃と侮辱は、同じ痛みとなって殺生丸の胸を衝く。痛み以上の怒りが腹の底からふつふつと湧き上がり、瞬くのうちに姫を壁に追い詰めその細い首根を押さえつけた。
姫は蒼白な顔面に、それでもなおも笑いを貼り付けながら言い放った。
「目を覚ませ、殺生丸。情に流され、小娘に振り回されるなど……」
「振り回される……?」
殺生丸はくっくと低い笑い声を漏らした。
「姫よ、勘違いするな。りんに振り回されてるのではなく、私がりんを振り回しているのだ。人の世に戻ることを許さず、ひとり妖の世界へ放り込み、それでもりんを離さないのは、私なのだ」
殺生丸の思わぬ告白に一瞬言葉を失った姫だったが、次には涼やかな声に似合わぬ賎しい笑い声を上げた。
「愚かしいな、殺生丸。それが冷酷といわれた男のなれの果てか。なまじ天生牙など開眼させるからそなたは狂うてしまった。伯父上も是非無いこと……」
だが最後の言葉は、ひっ、という姫自身の叫び声にかき消された。頬に一筋赤い線が走り、白磁器のような肌が赤く染まる。なおも殺生丸の爪は姫を狙っていた。
「きさまの望み通り、冷酷な男に戻ってやろうか。一族の者だろうと女だろうと容赦はしない……」
殺生丸は眼を細め、嬲るようにゆっくりと今度は首筋に赤い線を走らせた。姫の目は大きく見開かれ、恐怖で顔が引きつっている。殺生丸はそれを愉しそうに眺めていた。
「だが残念なことに慈悲の心とやらもある。今すぐ消え失せれば、命だけは助けてやろう」
そう言ってぞんざいに姫を突き放すと、にやりと口端を上げてみせた。
「――りんに感謝するんだな、我が従姉殿」


りんの姿を最後に見てから半日しか過ぎていない。りんの足ではさほど遠くには行けまいと思うが、いつの間にか降り出していた雨がやっかいだった。雨は諸々のにおいを消し、探すのがひどく困難な状況になっていた。
今殺生丸の胸に渦巻くのは、己への激しい叱咤だった。
何故気づいてやれなかったのか、笑顔の裏に隠された深い哀しみを。
――殺生丸さま、大好き!
幼い頃から繰り返された、意味のない言葉。言った本人さえも言うだけ言えば満足していた。
それがいつの頃か滅多に口に出さなくなった。気持ちが深まるほどに言葉は重い意味を持つ。幼い頃からの崇拝者が、ひとりの異性に形を変えていくのは自然の流れであり、りんもいつの間にそれほどまでに成長していたのだ。
あの女はいち早くそれを察知したのだろう。
高貴な仮面の下で爪を研ぎ、虎視眈々とりんを狙っていた。存在を見せつけることで脅威を与え続け、りんの心が弱っていくことに舌なめずりしていたのだ。
それでもりんは、殺生丸さまの大事なお客さまだから、と言ってあの女にさえ笑顔を見せていた。
それなのにあの女は、抵抗する知恵も武器も持たない少女を毒牙にかけ、あっけなく陥落させた。
思い出す笑顔の痛々しさに殺生丸の心が苛む。
やがて殺生丸は微かにりんの匂いを感じ、同時に別の生き物のにおいも捉えた。素早く地面に降り立つと、僅かな窪みでそれが馬の蹄の跡だと認識した。おそらくどこぞの合戦で乗り手を失い彷徨って来たのだろう。
殺生丸はふっと自嘲わらった。手負いかもしれぬ馬に乗るとはりんも無茶なことをする。それほどまでに己の不甲斐なさに愛想を尽かしたか。
だが――。
私はそれほど甘くはないぞ、りん。おまえを離すつもりなど、毛頭ない。
殺生丸は躊躇することなく再び空へと駆け上がった。


りんの居場所はすぐに知れた。雨が降って濡れた地面に蹄の跡が残り、それは森へと続いていた。雨を凌ぐように葉が覆いかぶさる森の中は、りんの匂いを容易に捉えられた。姿を見つけ降り立とうとして、だが、殺生丸はしまった、と思った。
気配に敏感な馬が殺生丸の妖力に怖れをなし、突然全力で疾走し始めたのだ。いきなり走り出した馬にりんの体は一瞬宙に浮き、悲鳴が上がる。それでも何とか手綱だけは握りしめているが、体が大きく左右に振られ今にも投げ出されそうだった。
くそっ!
りんを助けようと近づけば近づくほど馬は狂ったようにいななき、森の中を滅茶苦茶に走る。小枝がりんの体にぴしぴし当たり、滲み出る血のにおいが殺生丸の鼻をつく。
「手綱を放せ!」
はっとして振り向いたりんは、そこに殺生丸の姿を認めると迷わず声に従った。放り出されたりんの体は弧を描き、次の瞬間、力強い腕の中にいた。
驚きと安堵の瞳が絡み合い、驚きの瞳が潤む。
「りんは……」
「わかっている。何も言うな」
りんはこくんと頷いた。
殺生丸はそっとりんを地面に降り立たせると、手を取り甲に浮き出る傷を撫でた。
「痛むか?」
「ううん、大丈夫。このくらい唾をつければ……あっ……」
殺生丸の舌が傷を舐めていた。さらに別の傷にも舌を這わせる。
「あ……あの……殺生丸……さま?」
「私のものでも差し支えあるまい」
殺生丸はひとつひとつ傷を丁寧に舐め上げていく。舌が順に昇るにつれ、りんは痛みとは別の種類の感覚に体を震わせた。りんを掴んでいた手から伝わる反応に、殺生丸は頬の傷から口端に舌を滑らせた。舌は優美な曲線を描く輪郭をなぞり始めた。
「そ、そこは……怪我……してな……」
りんが口を開いた機を逃さず、殺生丸は舌を侵入させた。口腔をまさぐり、舌を絡め取る。何度も繰り返される口づけに、りんの意識は朦朧とし体の力が抜けていく。
ふっとりんの体が滑り落ちた。すんでの所でりんを支えると、未だぼーっとしているりんを抱き直し、殺生丸は苦笑した。


「あ……」
殺生丸の胸に顔を埋めていたりんが小さな声を上げ、空を見上げた。つられて殺生丸も見上げる。
雨はいつしか雪に変わっていた。
殺生丸とりんは黙ったまま、雪を見ていた。
西国に戻り、好むと好まざるとに関わらず一族の長と崇められると、他人の思惑やしがらみが知らず知らずのうちに殺生丸を縛りつけていた。殺生丸の意図するところと別の方向に物事が流れ、それを止める術もなく、歯痒い思いはおりとなり沈殿していった。
昔はすべてが単純だった。我唯独り、孤高に生きてきた。欲しければ奪い、そうでないものは切り捨てる。そこにたまたま人間の子どもがひとり紛れ込んだとしても、変わることはなかった。待つ者がいるから戻り、弱き存在だから護った。起点と終点の間にはひとつの選択しかなかった。
雪はしんしんと降り続け、森を大地を白に埋めていく。それはあたかも殺生丸の胸の内に澱んでいたものを白く染め変える様に似て。
「あの頃みたい……」
まるで殺生丸の心を読んだかのように、ふとりんが呟いた。
「殺生丸さまとりんと邪見さま。いっつも三人だけで。あっ、でも今は邪見さまがいないね」
そう言ってうふふと笑った。
りんもまた様々な思惑に踊らされ、剥き出しの無垢な魂は傷つき、血を流し続けてたのかも知れない。
今、一点の曇りもないこの笑顔を、何に感謝すればいいのだろう。
殺生丸はりんの髪に舞い降りた雪を優しく振り払うと、髪を耳の後ろにたくしあげ、囁いた。
「共に生きるのは、嫌か?」
「えっ?」
まるで鳩が豆鉄砲を喰らったような顔を、殺生丸は面白そうに眺める。そしてようやく殺生丸の言わんとすることを理解すると、今度は大きく目を見開いた。
「りんと……殺生丸さま……?」
「そうだ。おまえと私だ。他に誰がいる」
りんは夢中で首を振り、殺生丸の首に腕を巻き付けた。
「い、嫌じゃない! 全然嫌じゃない……!」
そう言ってりんはますます殺生丸にしがみつく。意外な程の力に殺生丸は微苦笑しながら、まわされた腕をそっと解く。
二度目の口づけは、さらに甘く、より深く――。


奇蹟の夜に、雪は静かに降り積もる。