その、ぬくもりを


もう何度目か、邪見はまた後ろを振り向いた。
まあだ、ついてきとるわい。
つい先ほど、自分の主が信じがたい行動をしたのにも驚いたが、人間の小娘が自分たちの後をついてくるのにも、驚いた。
どういう理由で、我が主が人間の小娘に気をとめたのか、その上、“なまくら刀” と忌んでいた刀を使ってまで、何故生き返らせたのか、従僕である邪見にはさっぱりわからなかった。
そしてそれ以上にわからないのが、あの小娘。なんだってこうもついてくるんじゃ。気になってしかたない。
主は主で、多分、いや絶対小娘がついてきてることを知っているのに、何も言わない。否定はしてないが、小娘がついて来ることを認めたわけでもない。
邪見は、とうとう立ち止まって振り向き、人頭杖を振りあげ威嚇した。少女は、びくっとして足を止めた。
「放っておけ、邪見」
やっと、殺生丸が口を開いた。
「でも、さっきからずっとああですよ。この分じゃ、どこまでもついて来る気かもしれません」
「疲れれば、そのうち止まる」
それきりまた、殺生丸は前へ進む。
確かにそうかもしれないけど、やはり気になる。再び振り向くと、ほらやっぱり。少女はついて来ていた。
だが、殺生丸が放っておけ、と言った以上、気にはなるがどうしようもない。
もちろん殺生丸には最初から、人間の小娘がついて来ていることくらい知っていた。
だが今は、あんな小娘のことなどどうでもいい。天生牙を振るったのは、ただの試し切りと同じ。理由などない。
それよりも、忌々しいのはあの異母弟だ。苦し紛れの一撃ではあろうが、己に向けて風の傷を放つとは。何故にそれほどまで鉄砕牙は、あの半妖を選ぶのか?
そしてこのなまくら刀。何故、私を守った?まさかあの人間の小娘を、生き返らせるためではなかろうが……。
人間の小娘……まだついて来ているか。
ようやく思考がそちらへ向いたと同時に、不機嫌になる。
その気になれば、犬夜叉から受けた一撃の傷がまだ治っていなくとも、小娘を引き離すくらいなら、軽く空に上がればそれですむことだ。しかし、そこまでして小娘から離れようとするのは、あまりにも馬鹿らしい。小娘の方で諦めるか、疲れて立ち止まるかまで、放っておくつもりだった。
殺生丸を不機嫌にさせたのは、小娘ではなく、後ろにつく従僕の方だった。放っておけ、と言ったにも拘わらず、さっきから立ち止まっては後ろを振り向き、己の背中に向けてため息をついている。そして、そんな邪見に気を取られる己にもまた、腹が立つ。
「そんなに気になるなら、きさまの好きにしろ」
「えっ?」
「追い返すなり、殺すなり、勝手にしろ」
邪見は二の句が継げなかった。この主が冷酷無慈悲であることは、充分承知していたはずだが、ついさっき自分で生き返らせたものを、次の瞬間にはいとも簡単に殺せ、と言う。ここまで冷徹になれるとは……。
もちろん邪見には、そう言わせる原因が自分であることなど、露ほどにも考えつかなかったが。
でもそう言われると却って、小娘が哀れに思える。いくらわしでも、そこまでは出来ない。仕方ない、放っておくしかないか。
期せずして、邪見は殺生丸の最初の言葉に従わざるを得なかった。


りんもどうして自分が、あの妖を追いかけてるのかわからなかった。自分の身に一体何が起こったのかさえ、よくわからない。
狼が襲ってきたのは覚えてる。怖い、と思ったところで記憶がぷつんと切れた。そして次に記憶が戻ったとき、あのひとがいた。周りにはもう狼はいなかった。
森の中で初めて見たとき、きれいなひと、と思った。
りんが近づくと威嚇したり、食べ物を持っていくと無造作に払いのけたりはしたが、ただそれだけだった。いつも村人たちから感じていた、蔑み、侮りがりんに向けられることはなかった。だから不愛想にされても気にせず、妖の元に通った。
何があったか分からない空白の闇から目を覚ました時、妖の腕の中で、その瞳を見た。
冷たいけど、澄んだ眸。子どものまっすぐな心は、それを信じた。
理屈ではない、その心がりんを追いかけさせた。
そして何よりも、もう二度と村には戻りたくなかった。
だけど、ずっと前を行く妖は、まるでりんのことを考えてなどいない。もともとついてくるのを許した訳でもないから、その歩みを子どもの足に合わせるつもりなどなかった。それが無言の拒絶なのだが、どうもあの小娘にはわからんらしい。
いや、りんには分かっていた。分かっていたからこそ、足が痛いのも、空腹なのも我慢して、必死についていってるのだ。時々、あの妖と一緒にいる小さい妖怪がこっちを見て恐い顔をするが、そんなのは、恐くない。
怖いのは、あのひとを見失うこと。
だが子どもの足はとうとう限界に達した。前に進みたくとも、足が、もう一歩も動いてくれなかった。
妖は当然振り向くこともなく、そのまま森の奥へと入っていった。


「あの小娘、ようやく諦めたようですね」
邪見は何気なく言っただけだが、返ってきたのは 「黙れ」 という至極不機嫌な声だった。
わ、わし、何かまずいこと言ったか? おろおろする邪見を後目に、殺生丸は益々仏頂面になる。
邪見に言われなくとも、そんなことは分かっている。邪見には放っておけと言いながらあの小娘に気を取られ、もう姿が見えなくなった今でも、小娘のことが頭から離れない。だから邪見に八つ当たりをする。そして、そんな己がさらに腹立だしい。
ああもう、さわらぬ神に祟りなしじゃ、邪見はもう何も言わず、黙って木陰に身を潜め休むことにした。
殺生丸も苛立つ気持ちを何とか抑え、木にもたれた。風の傷で受けた衝撃は思ってた以上に深く、疲労していた身体はすぐに眠りへと落ちていった。
どのくらい時間ときが過ぎたのか――。
闇に深く混じるふくろうの鳴き声で、殺生丸は目を覚ました。月はすでに天上へと昇っていた。あの小娘は……。
また、あの小娘か!
何故にこうも気に掛かる。あの小娘のことなど、どうでも良いことだ。どうも思ってなどいない。ただ、己に向かって笑いかけただけだ……。
暫く月を見上げていた殺生丸は、静かに立ち上がった。そして、先ほど来た道を戻る。
己らしからぬ、殺生丸はふっと笑う。あの小娘がどうなったのか、確かめるだけだ。いなければ、もうそれで良い。そうすればこの煩いも消えるだろう。
森を出たところで、立ち止まる。おぼろな月明かりが、漆黒の闇を仄かに照らしていた。夜を生きるもの以外、闇に見えるものは、なかった。
やはりな、そう思って踵を返そうとしたとき、視界の端に動くものを捉えた。
まさか……。


動けない足のまま、あの妖が森に消えるのを、見ているしかなかった。そしてその姿が完全に木々の向こうに消えたとき、りんはぺたんと、その場に座り込んだ。大事なひとが、行ってしまった……。
その思いが、親兄弟を亡くしてから初めて、涙をこぼした。しゃくり上げ、やがて小さな身体はうずくまるように動かなくなり、そのまま寝入ってしまった。
そうして、寝返りをうった拍子に目を覚ましたりんは、あたりがすっかり暗くなっていることに気がづいた。あの妖が消えた森は、不気味な生き物のように木々の葉を揺らし、その葉音は新たな恐怖をりんに芽生えさせた。
それでも、りんは村へ帰ろうと思わなかった。もう、蔑みや侮りの目なんていやだ。もうあのひとに逢えなくても、あのひとの澄んだ眸だけを思い出して、ひとりでいる方がいいと思っていた。
その時――。
森の入り口で、何かが光った。どきん、と胸の鼓動が大きく鳴る。ざっと全身に恐怖が駆け抜ける。に、逃げなくちゃ、と思ったとき、それがふたつの金の眸だと気づいた。
あのひとだ! りんは足の痛みも忘れて、駆けだしていた。
満面の笑みを浮かべ、両手を広げ、己の胸に飛び込もうとする少女を、殺生丸は思わず咄嗟に受け止める。少女は妖の首に、自分の手を巻き付けた。
そして、いきなり少女は、うわーん、と大声で泣き出した。堪えていたものを全部吐き出すかのように、何憚ることなく大声で泣き続けた。
戸惑ったのは、殺生丸だった。誰かを抱き上げることなど初めてのこと、ましてやそれが人間の小娘であり、おまけに耳許でわんわん泣いている。
迷惑など通り越し、不愉快極まりない筈なのだが、不思議と可笑しさが込み上げてくる。
今まで己に遭遇した者は、身の程知らずに刃向かうか、恐れおののいて逃げ出すかの、どちらかでしかなかった。だが、この小娘はどちらでもない。己に向かって笑い、そして、泣いている。
つと、抱き抱えていた腕が重くなる。泣き疲れた少女が、その頭を妖の肩に乗せ、すやすやと眠っていた。
殺生丸は、すっかり呆れてしまった。なんという図太さ。己を怖がるどころか、その反対の顔で眠りこけている。もう、笑うしかない。
だが、さてどうする? まさかこのまま、捨て置くわけにもいかず、しばらくはその体勢のまま、じっとしていた。
そして、確かに生きている証の、幼子のぬくもりが殺生丸に伝わる。
やがて、ひとつの思いが浮かぶ。
天生牙が反応した命、こうなったら最後まで見届けてやるしかあるまい。
殺生丸は腕の中の幼な子を抱き直し、再び森の中に消え入った。


朝になって一番仰天したのは、もちろん邪見である。あの小娘が何でここにいるんじゃ? 少女の方も最初目を覚ましたとき、その周りの状況に驚いていたようだが、すぐにそれに馴染んだ。
引き替え、なかなか驚愕から立ち直れない邪見に、主は一言、
「面倒を見ろ」
とだけ言った。邪見の運命は決まった。そして肝心の少女は邪見に向かって、
「りんはね、りんって言うんだよ」
などと、脳天気に言う。なんちゅう小娘じゃ。だが、どうせ主には逆らえぬことだし、その笑顔を見て、ま、いいか、とも思う。
「行くぞ」
殺生丸が歩き出す。そして、邪見、りんと続くのであった。