ゆ き 花


ひとひらの雪が、降りてきた。
風の匂いで、やがてそれが白の世界になることを、殺生丸は察した。
その前に、りんのため風雪を凌ぐ場所を見つけてやらねば。
殺生丸は先を急いだ。


その洞の入り口を塞ぐものはなかったが、奥行きがあるため、多少風は吹き込むが、身を置くには充分であった。
火を熾し洞の湿った空気が徐々に乾く頃、りんは身体の暖まりとともに瞼を閉じ、規則正しい寝息をたてていた。
この天候では、わざわざ自分たちに争いを仕掛けてくる連中もいまい、そう思って殺生丸も壁にもたれ、軽く目を閉じた。
外界は、案の定、白一色の世界になろうとしていた。


いつの間にか、殺生丸はその白の世界をひとり彷徨っていた。そしてその姿はちょうど今のりんくらいであった。


何も見えない。頼りの匂いも、風にかき消されていた。殺生丸は、途方に暮れてしまった。
その年初めて降った雪が嬉しくて、つい、山の麓近くまで来てしまった。
気づいたときには、全ての方向を失っていた。
進むことも、退くことも出来ずにいた時、微かに声が聞こえたような気がした。
はっとして辺りを見廻したが、白以外、何もない。
突然目の前に雪柱が現れ、思わず殺生丸は両手で目を塞いだ。くすくす、という笑い声がして、そっと手を除けると、自分と同じくらいの年格好の少女が立っていた。
驚きで声も出せずにいる殺生丸とは対照的に、少女はにこにことしていた。
「おまえ、誰だ?」 やっと声が出た殺生丸に、少女はにこにこしたまま、「ゆきんこ」 と答えた。
「あなた、誰?」 今度は、少女が尋ねた。
答えようとして口を開きかけたが、あまりの寒さのため顔が強ばってしまい、それ以上動かせなかった。
少女は、つと、殺生丸の手を取ると風に乗るように、空を飛んだ。
やがて少女は、木が生い繁っている場所に降り立った。そこは、枝が覆い被さるようにして雪を遮り、木々が囲いとなって風を防いでいた。
ようやく人心地ついた殺生丸は、改めて少女を見た。姿形は人間の子どものようだが、人間でないことは、すでに殺生丸にもわかっていた。
じゃあ、何だろう?
人間にしろ、妖怪にしろ、何かしら匂いはある。が、この “ゆきんこ” という少女からは何の匂いもしない。
不思議そうに見ていると、少女も同じような仕草で殺生丸を見ていた。
「だあれ?」 少女は、同じ質問をした。
「殺生丸」
「せっ・しょう・まる」 確認するように一語ずつ区切って言うと、「殺生丸は人間なの?」 と尋ねた。
「違う。ぼくは妖怪だ!」 人間なんかと一緒にするな、とでも言いたげな口調だった。
少女は、くすっと笑い、
「おんなじ。人間も妖怪も動物も、みんな寒がりだもの」 と言った。
「じゃあ、おまえは何なんだよ」
「ゆきんこ。雪、だよ」


がさっ、という音がして、雪の重みに耐えられなくなった枝が、雪を落とした。その音にはっとして空を見上げると、すでに薄暗くなっていた。
急に殺生丸は不安になった。そんな表情の殺生丸を見て、少女が尋ねた。
「どうしたの?」
迷子になった、なんて言えない。幼いながらも、誇りが高い殺生丸は唇をぎゅっと噛んだ。
「帰る」 精一杯、虚勢をはった声でそう言うと、とにかく歩き出そうとした。
「こっち」少女は、先ほどと同じように殺生丸の手を取ると、再び風に乗り、もとの場所に戻った。
相変わらず激しい吹雪だったが、少女がふーっと息を吹きかけると、今まで猛り狂ってた風雪がぴたりとやみ、急に視界が開けた。帰路を見つけた殺生丸は、そのまま走っていった。
途中、立ち止まって後ろを振り返ったが、そこはもう白の世界に戻っていた。


翌日、雪は里の近くまで降りてきていた。
(ゆきんこが来てる!) 確信に近い思いをもって、殺生丸は外へ飛び出した。
「殺生丸」
振り向くと、やはりゆきんこが立っていた。
ゆきんこは、昨日と同じように殺生丸の手を取り、空へ舞い上がろうとした。
「ぼくだって、飛べるんだ」 そう言って、殺生丸は変化すると、空に駆け昇った。それを見たゆきんこは、自分も少女の姿形を解き、白い雪粒となって殺生丸の身体のまわりを、舞うように飛んだ。
時には追いかけっこするように、時には競争するように。
殺生丸は、何だか気持ちがわくわくしていた。父や母以外の誰かと、こうして空を駆け抜けるのは、初めてだった。それも、こんなに思い切り。
やがてふたりは、息を切らしながら、風雪の遮られた場所に降り立った。
「殺生丸は、犬なんだ」
「そうだよ。ぼくの父上は、もっと大きくて、もっと早く飛べるんだ。おまえの父上も早く飛べるのか?」
「おとうさんも、おかあさんも、いない。わたしは空から生まれたの」
殺生丸はびっくりした。けれどゆきんこは、別段寂しそうな顔をするわけでもなく、今までと同じように、にこにこしていた。
「おまえ、どこから来たの?」
そのままふたりは、向かい合って座った。
「北の国」
「そこに、住んでるの?」
「ううん、どこにも住んでないよ。北風と一緒に、どこでも行くの」
そう言うとゆきんこは、殺生丸が見たことも、聞いたこともない世界のことを、いろいろと話した。
話に飽きると空を飛び、降りてはまた、話をした。
一番星が瞬く頃、殺生丸はゆきんこに、しぶしぶさよならを告げ、帰っていった。


その夜、殺生丸はなかなか寝つけなかった。
あんなに笑ったのは、初めてだった。あんなに話したのも、初めてだった。
あの父と母のひとり息子、ということで、周囲からは大切に、鄭重に扱われ、それが普通であり、不満もないかわりに、それ以上のことは考えたこともなかった。
でも、今日ゆきんこと一緒にいて、そう、ぼくは楽しかった! すごく楽しかった!
そして、ゆきんこと手をつないだとき、ぼくは変な気持ちになった。
ゆきんこの手は、驚くくらい冷たかった。なのに、全身が熱くなるような感じがした。そして、急に胸がどきどきした。
何でだろう……?
だが、その先を考える前に、遊び疲れて満足した身体は、深い眠りへと落ちていった。


その年の冬、殺生丸は時間が許す限り、ゆきんこと一緒に遊んだ。
ある日、ゆきんこのところへ行く途中殺生丸は、雪を割って咲いてる、白い花を見つけた。
殺生丸の周りにいる女たちは、花が咲いた、と言っては喜び、その花を部屋に飾っては嬉しそうにしている。母も、父から花をもらうと、その顔が優しくなるのを知っている。
(女は花が好きなんだ) そう思って、殺生丸はその花を摘み、ゆきんこのところへ急いだ。
「これ、やる」 気持ちとは裏腹に、少々ぶっきらぼうな物言いで、花を差し出した。
ところが、殺生丸の思いとは別に、ゆきんこは急に、寂しい顔をした。そんな顔のゆきんこを見たのは初めてだった。
ぼくは、ゆきんこの喜ぶ顔を見たかったんだ。こんな顔じゃない。
ゆきんこは、戸惑う殺生丸の手から花を受け取ると、悲しい声で言った。
「この花はね、“春告草” って言うの。この花が咲いたら、わたしは北に帰るの」
殺生丸の胸が、どきん、と大きくなった。
帰る? いなくなる? もう、会えない?
頭が混乱して、殺生丸は何も言えなかった。「いつ……?」 やっと、声を出せた。
「もうすぐ。でも、来年も来るから、また遊ぼうね」
ゆきんこは、殺生丸が見たかった顔で、そう言った。

ところが、その日の夜から、殺生丸は熱を出して寝込んでしまった。
(ゆきんこのところへ、行かなくちゃ。もうすぐ帰ってしまう、行かなくちゃ……)
だが、身体は重くて言うことをきいてくれない。
ようやく熱も下がり、起きあがれるようになると、急いで部屋の障子を開け放った。
瞬間、ふわりと、暖かい風が殺生丸の頬をなでた。
(ゆきんこ!)
殺生丸は周りが止めるのも聞かず、まだ病み上がりの身体で、外へ飛び出した。そのまま、いつもゆきんこと会う場所を目指して、ひたすら走った。
(まだ、行かないで!) それだけ思って、ただひたすら走った。
「ゆきんこ!」 大声で周囲に向かって叫んだ。が、返事は返ってこなかった。
殺生丸はその場に座り込んで、がっくりと頭を下げた。
「せっしょうまる……」 弱々しい、だが、はっきりと自分の名を呼ぶ声に、殺生丸ははっとして、顔を上げた。
ゆきんこが、立っていた。
「ゆきんこ!」 嬉しさのあまり思わず抱きつこうとしたが、その瞬間、ゆきんこの身体は、すうっと透けるように消え、白い雪粒となった。
「殺生丸に、さよなら言いたくて待ってたの。北風に乗り遅れちゃった。ごめんね……来年、もう、遊べ……な……い……」
そして、その白い雪粒も、吹いてきた春風の中に、溶けるように消えていった。
「ゆきんこ! ゆきんこ!」
殺生丸は、声を限りに叫んだが、もう、返事はなかった。


「……丸さま……?」
声がして目を開けると、そこにゆきんこがいた。
(ゆきんこ!) 咄嗟に手を差し出し、その腕を掴んだ。
今度こそ、今度こそ消えていなくならないように、その腕を離さなかった。
「殺生丸さま、痛い」
はっとして、視線を上にあげる。そうだ、ここにいるのはりんだった。
「どうかしたの、殺生丸さま?」
「いや、何でもない」 そう言って立ち上がり、外の様子をうかがった。
雪はいつの間にかやんでいて、日が射していた。
りんは外で遊びたくて、うずうずしてるようだ。殺生丸が軽く頷いて許可を与えると、りんは、まるであの日の自分のように、外へ飛び出していった。
(夢だったのか……)
あの日、ゆきんこが消えてから、殺生丸は自分を責め続けた。ぼくが熱さえ出さなかったら、もっと早くゆきんこのところへ行っていたら……。
その自責の念が、ゆきんこの記憶を、心の奥深くに封じ込めた。
それが今になって、急に夢に現れるとは……。
「殺生丸さま、見て!」 嬉しそうなりんの声に、我に返る。
「もう、お花が咲いてたんだよ」 そう言ってりんは、殺生丸に花を差し出した。
春告草……。
思わずりんの顔を見る。りんはにこにこしたまま、殺生丸に花を手渡し、また、雪原に走っていった。
殺生丸は手渡された花を見て、それから、りんに目を向けた。
この娘は違う。儚く消えたりはしない。幼いながらもしっかりと大地に足をつけ、冬の厳しさを、夏の暑さを、生きる。
殺生丸は、その生命力あふれる少女の姿を、いつまでも眺めていた。


ゆきんこ、ぼくは君に逢えて、幸せだったよ。