笑 顔 咲 く


「臥せっているそうだな」
愉しそうな声がした。声の主に慌てて邪見がはせ参じるが、案内無用と手で制し、かまわず歩を進める。
「お、お待ち下さい、御母堂さま。せ、殺生丸さまはだれも通すなと……」
母堂の歩みがぴたりと止まる。肩越しに見下ろされる眼差しはかの主そっくりで、それだけでこの哀れな小妖怪の寿命は百年縮む。
「私はあれの母ぞ」
おそらくそれが一番の理由かと……。
「小妖怪」
「はい?」
「――顔に書いてあるぞ」
「え……」


とっくに気配を察しているくせに、息子は母に背を向けたまま振り返ろうともしない。おまけにその全身から、帰れ、という気を発している。もちろんそんなものに怯む母ではないが、相変わらず可愛い気がなやつ、と小さく毒づく。
(だが、やはり妖力は落ちてるか……)
傍目にはわからないが、母の目は息子の妖力の微妙な乱れを捉えていた。
重大な病でないということは、すでに薬師から聞いていた。だがまさか、幼年に罹るはずの病を今頃になって患うとは。思わず笑いが漏れる。
「何の用だ」
笑われたのが癇に障ったのか、ようやく振り返った殺生丸が口を開いた。
「見舞いに来たとは思わぬのか?」
「ふん……」
母の言葉を一蹴し、胡散くさげに目を細める。
(母の顔色を読むなど、千年早いわ)
息子の探るような視線を軽くはね返し、葡萄えびぞめ打掛の裾を優雅にさばいて脇息にもたれた。どうやら帰るつもりはないらしい。勝手にしろ、とばかりに再び殺生丸は背を向けた。
――幼年期であれば問題ないのですが、成年になってから罹られると、ちとやっかいですな。
さらに薬師は続ける。
――治らないわけではないが、正しく養生しないとほんの少しだが、妖力が失われる場合がありますぞ。
正しい養生とは、すなわち薬師が煎じた薬を飲むことだが、何故か息子は昔からそういう類の一切を拒んできた。息子なりに理由はあるのだろうが、ようはただの薬嫌いなのだ。
強大な妖力のほんの少しくらい失われても差し支えないと思っているのか、或いは己が力を失うわけがないと信じているのか。――間違いなく後者だ。
妖力を失おうが失うまいが、それこそ息子の勝手だが、やはり親心、一応は心配してみる。さらに本音を言えば、幼少時の病に関してうかつだったな、という後ろめたさも多少にあった。
さて、どうしたものか……。


横目で母を見遣る。
何を企んでいる?
見舞いに来たなどとは端から信じてないが、このように部屋に居座ったのには理由わけがある筈だ。しかし端麗な顔からは何も窺えない。
つと、母の視線が動いた。
しまった――。
常ならば、誰よりも早く察知する匂いを、この忌々しい病のせいで一瞬遅れる。その上一番かかわって欲しくない者に先を越された。
「娘、入っておいで」
柔らかな声でりんを呼ぶ。やや間があって、障子の陰から黒い瞳が覗いた。躊躇う瞳が殺生丸を見、殺生丸は頷くしかなかった。
ぱっと花のような笑顔が咲いて、りんが部屋に入ってきた。
「ほう……。わずかに見ぬ間にずいぶんと娘らしくなったな」
りんの頬がほんのり染まる。それは母の目にも愛らしく映るのか、殺生丸が見たこともないような笑みを浮かべていた。
「いくつになった?」
「ええと、たぶん十三……?」
「そんなになるか。それはもう立派な大人だな」
仰々しい物言いに嫌な予感がする。殺生丸は早々に母を追い出したかったが、りんとの会話を遮ってまでそうするのも大人気ないような気がして、苦々しい面持ちで見下ろしていた。
「殺生丸が病気なのは知ってるだろう?」
こくんと頷くりんの笑顔が曇る。
「りん、ずっと心配だったの。でも邪見さまが、殺生丸さまのお部屋には行っちゃいけないって……」
「だからこっそり隠れてたのか?」
「あ……ごめんなさい……」
咎められたと思ったのか、りんは消え入るような声で項垂れた。
「ああ、責めているのではない。殺生丸を案じてくれて母は嬉しいぞ。礼を言わねばな」
おそらくそれは本心だろうが、りんを呼び入れた本意は別のところにある筈だ。
「時に、娘――」
果たして母の声音に不穏な響きを感じる。
「心配には及ばぬ病とはいえ、病人には看てくれる者が必要だ。私が看てやってもよいのだが、それは殺生丸も好まぬだろう。――なあ、殺生丸」
「当然だ」
やはりそうか。だがたとえりんでも……と言いかけたとき、
「えっ、どうして? 御母堂さまなのに?」
りんが無邪気に聞いてきた。
「いや、言い方を間違えたな。殺生丸は母に看てもらうより、そなたに看てもらいたい、ということだ」
「本当!?」
りんの顔がぱっと輝く。
瞬間、嵌められたことに気づいた。罠は一段深く用意されたというわけか。
先に殺生丸が母の看病を拒むのは当然として、りんの看病を受け入れればそれでよし、拒もうとすれば煽る物言いでりんをその気にさせ、殺生丸が否定できない状況を作り出す。そこで否定しようものなら、たとえそれが看病のことであっても、りんは自分が否定されたと思うだろう。そして殺生丸はりんにそんな思いは決してさせない。
そこまで見越していたのだ。やはり早々に追い出すべきだった――。
息子の憮然とした態度にほくそ笑みながら、母は最後の仕上げに取りかかろうとしていた。もはや止める術はなかった。
「母に代わって殺生丸の世話を頼めるか?」
「はい!」


それから半時ほどして、ぱたぱたと殺生丸の部屋に近づく足音が聞こえた。
「こ、こりゃ、りん! そんなもの持ってどこへ行く?」
「殺生丸さまのお部屋だよ」
「いかん、いかん。殺生丸さまはどなたとも……」
「りんはいいの。御母堂さまに頼まれたんだから!」
誇らしげなりんの声に、思わずため息が漏れる。
一体何をしでかしてくれるのかは想像できないが、することは何もない。りんも直にそれはわかるだろう。
ただ、病に罹って以来、りんが日に幾度となく部屋の近くをうろうろしていたのを、殺生丸は知っていた。心配で会いたかったのだろうが、さすがに今回だけは邪見にきつく言い渡されていたらしく、部屋まで来ることはなかった。
今まで我慢していた分、部屋の出入りくらいは好きにさせてやるか。そうすればそれでりんも満足するだろう――。
そう気楽に考えていた殺生丸だったが、髪を布で覆い、着物にたすき掛けをしたりんは使命を全うする気満々だった。薬師の助手よろしく、張り切っている。
「殺生丸さま、お薬飲んで」
そう言って盆に乗せてある湯飲みを差し出した。
「いらぬ」
「だめ。りんの言う通りにして」
ぴしゃりと言い返された。りんらしからぬ口調は、おそらく母の入れ知恵だ。
こうなったらはっきり言うしかない。最初が肝心だ。世話は必要ないということをわからせるためには仕方がない。りんのお喋りを止めるのに絶大な力を持つ口調で言い放つ。
「余計なことはするな」
ところがりんは怯まなかった。逆に口を真一文字に結び、殺生丸をひたと見据えてる。
「りん、御母堂さまと約束したの。殺生丸さまが治るまで絶対お世話するって」 半ば呆れ顔でりんを見る。これほど見事に母に籠絡されるとは。
しばらく睨み合いの様相を呈していたが、決意に満ちた眼差しはどうあっても覆せそうにもなかった。殺生丸は深いため息をつく。
「……寄越せ」
「飲んでくれるの?」
答えるかわりに、ささやかな抵抗を込めて、思いっきり不機嫌に飲み干した。けれどりんは、とりあえずひとつ、殺生丸の役に立てたことを素直に喜んでいる。
「病気になったら静かにしていなくちゃいけないの。あとね、お部屋も清潔に保つんだって。殺生丸さまのご用も、お部屋の掃除も全部りんがやるから、任せてね」
りんに頼むほどの用事はないし、部屋も掃除する必要がないほど整っている。何よりひとりの方がよほど静かに過ごせると言うものだ。だが、赤いたすきをかけてちょこまか動く姿は可愛いらしく、うなじにほつれる髪を直す様は、妙に艶っぽい。
案外りんに世話して貰うのも悪くはないか――。ふとそんなことを思った。


やがてひと通り掃除らしきものを終えたりんは部屋から出ていった。やれやれと思ったのも束の間、桶と手ぬぐいを持って戻ってきた。今度は拭き掃除でもする気か?
「お着物脱いで」
「何……?」
「薬師さまがね、お部屋だけでなく体も清潔に保たなくちゃいけないって。でも殺生丸さまはご病気だから湯殿には入れない、だからお体を拭いて差し上げなさいって仰ったの」
薬師ではない。これは絶対に母の陰謀だ。
「そこまでする必要は――」
けれどりんはまったくおかまいなしに、自分のすべきことを忠実にこなそうとしていた。強引ともいえる所作で着物を剥がされ、もうため息すら出ない。
だが――。
一向に背中を拭く気配がない。不審に思って振り向くと、りんはぽかんと口を開けたままだった。そして殺生丸と目が合うと、みるみるうちに頬が染まっていく。
ようやく反撃の糸口を見つけて、殺生丸の口端がにやりと上がる。
「どうした、りん。体を拭いてくれるのではなかったのか?」
わざと挑発するかのように、長い髪をゆっくり前へと流す。
りんは怒ったように殺生丸を睨みつけていた。おそらく羞恥に負けまいとしているのだろうが、愛らしく、ますますからかいたくなる。
りんは唇をぎゅっと結んで立ち上がると、力任せに背中を拭き始めた。笑いを堪える殺生丸を無視し、ひたすら拭き続ける。
ようやく拭き終えほっとしているりんに、しかし殺生丸は容赦しなかった。
「これは解かなくてもよいのか?」
そう言って自らの下帯に手をかけた。瞬時にりんの顔が真っ赤に燃え上がる。
「だっ、だめっ!」
りんは両手で頬を押さえると、脱兎の勢いで部屋から飛び出していった。
思わず笑いが声に出る。これでもう、己の世話をしようなどという気は起こさないだろう。そしてりんには悪かったが、母の思惑も打ち砕いてやったかと思うと、胸がすっとした。
――が、そこまでだった。
嘘だろう……。
己の中心が熱を孕んでいることに気づき愕然とした。


あの後りんは来なかった。りんの動揺ぶりを思い出すと、多少からかい過ぎたかと思わないでもないが、結局どちらのためにもこれでよかったのだ。
しかし、あれは一体どういうことだったのだ? あれも病の症状のひとつなのか?
つと、空気が揺れる。
「今度は何だ? 薬師がまた何か言ったのか?」
「ううん。――あのね、殺生丸さまが眠るまで側にいていい? りんが病気になったとき、りんのおっかあはずっと側にいてくれたの。そうすると何だかほわほわな気持ちになって、ぐっすり眠れたの。だからりんも殺生丸さまにそうしてあげたいなって……」
殺生丸は返事のしようがなかった。
もともと熟睡するたちではなく、側にだれかがいれば尚更だ。かといって、おそらくこれは母の差し金でも薬師の指示でもない、りんが自分でそうしたいと思ったことだろう、それを無下にするのも憚れる。
「やっぱり余計なこと……?」
殺生丸が答えあぐねていると、りんがしゅんと肩を落として呟いた。殺生丸がりんの世話を快く受けてるのではないことを知っていた口ぶりに、はっとする。きっかけは母の策略であったとしても、りんは心から殺生丸の世話を望んでいたのだ。


りんが喜ぶのなら――。
願いを穏やかな笑みに変えて。
そして、笑顔が咲いた。


灯りの消された部屋に、朧ろな光が届く。障子に映る陰影かげが、幽玄に揺れている。どこかもの悲しい、静かな旋律が流れてた。
これはおまじない。そう言ってりんが、囁きにもにた声で旋律を奏でてる。殺生丸の知らない旋律であったが、耳に心地よかった。
魂が温かなものにいだかれ、たゆたう如くに溶けていく。遙か遠い昔、守られ慈しまれ、かいなの中が己のすべてだったあの頃へ。
旋律は続く。
やがて殺生丸は深い眠りへと落ちていった。


信じられなかった。熟睡はまだしも、すでに日は昇りきっている。こんな時間まで、おまけにりんが来ていたことにすら気づかなかったとは。いくら強力な結界が張ってある屋敷内とはいえ、これほどまでに無防備を晒したのは初めてだった。
りんは今朝も頭に布を巻き、たすきがけで、すでに掃除を始めてた。どうやら殺生丸の世話を放棄する気にはならなかったらしい。
気配に気づいて、りんが笑顔で振り返る。
「おはよう、殺生丸さま。ずいぶんぐっすり眠っていたよ。りんのおまじないが効いたんだね」
そうか、そのせいだったか。
あの不思議な旋律を思い出した。どこか懐かしく、温かく、そして魂が浮遊する感覚。あれがりんの言うほわほわな気持ちなのか。もしそうだとしたら……なかなか悪くない。だがしかし、そんな気持ちにしょっちゅうなるようでも、たまったものではないが……。
いきなりにゅうっと、りんの顔が目の前に現れた。
「殺生丸さまどうしたの? お顔ころころ変わって、変だよ」
おまえにだけは言われたくない。
「お腹空いているでしょう。朝ご飯の用意してくるから待っててね」
ぱたぱたと足音が遠ざかる。ひとつを許せばあとはなし崩しとなるように、もはやこれは避けられない運命なのだと、殺生丸は諦めるしかなかった。


よくも疲れぬものだと感心するほど、りんは朝から晩まで甲斐甲斐しく殺生丸の世話をした。体を拭く件に関しては、殺生丸の方から断ってやった。その代わりおまじないも勘弁してもらった。
日を追うごとに妖力が回復していくのがわかる。起き抜けに感じていた軽い眩暈もなくなり、霞に覆われてたような視界も次第にはっきりしてきた。
そして数日後すべてが元に戻った。
「殺生丸さま、お薬の時間だよ」
「もう必要ない」
「だめだよ、ちゃんと飲まな……えっ、必要ないって……治ったの!?」
「ああ」
りんは持ってた盆を静かに置くのも忘れ、湯飲みから湯がこぼれるのもかまわずに殺生丸にかけ寄った。
「本当? 本当に治ったの?」
その事実が嬉しすぎて、まだ信じられない心地のまま、殺生丸の額に手を当てた。りんの手に冷んやりとした感触が伝わる。
「こうすればもっとよくわかる……」
そう言って殺生丸は両手でりんの顔を挟み、りんの額に己のそれを押し当てる。
「あ……」
殺生丸の息がかかるほどの距離に、りんの体温が沸騰する。
「どうした? 今度はおまえが病気になるの……か……りん!?」
りんの体がふにゃふにゃと溶け落ちていった。


「これは……何か強い衝撃を受けたのか……。一時の失神状態のようですな。どこかに頭をぶつけられたのですか?」
「いや……」
真相など告げられるはずもなく、殺生丸は言葉を濁す。
「心配はいらんでしょうが、もし何かありましたらすぐにお呼び下さい」
そう言って薬師は帰っていった。
りんはすやすやと眠っていた。
一気に急上昇した血流は今は落ち着いたのか、頬には健康的な赤味しか残っていない。呼吸も規則正しく、穏やかな寝息をたてていた。
だが驚くべきことに、薬師に衝撃を受けたのではと診断されたにも拘わらず、唇に微笑みを浮かべてた。
使命を全うした喜びか? 己が治った嬉しさか? それとも――。
わずかに開いた障子の間から、春の香りを運ぶ風が気まぐれに、りんの髪を乱して吹き抜けた。長い指が散らばる髪をたくしあげ、滑るように頬に下りる。
春風にさえも穏やかでない心に苦笑する。
りんの髪を乱すのは――。


笑顔咲く。
春はもうすぐ――。