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転がれ、転がれ、指輪よ
春の玄関口へ
夏の軒端へ
秋の高殿へ
そして、冬の絨毯の上を
新しい年のたき火を指して
――「森は生きている」より――
森は深雪に覆われていた。
わずかに粗末な蓑をつけ、雪わら靴を履いただけの少女が雪をかき分け森の奥へと進む。年の頃は七、八歳くらいか。背には不釣り合いなほど大きな籠を背負い、時々立ち止まっては息を吹きかける小さな手は凍えて赤くなっていた。
突然雪の中からうさぎが現れ、少女の前でぴたっと止まる。少女は愛らしい玩具を見つけたようにぱっと顔を綻ばせ、抱きしめようと手を伸ばした。
――馬鹿が。
少女の視界に入らぬ木の枝に身を置いていた若者が、雪を蹴散らしうさぎを逃がす。少女があっと思う間もなく、うさぎは白い雪の中に消えていった。
「お優しいですね」
揶揄を含む声に、木の枝にいる若者はふんと鼻を鳴らす。黒衣を纏ったもうひとりの若者は、白い衣を纏った若者の隣に座る。
「うさぎとはいえ、腹を空かせた動物は危険、ということですか?」
「白が朱に染まるのが好かんだけだ」
「左様で」
くっくと笑う声はまるで信じていない。
うさぎを諦めた少女は再び足を進める。
ふたりはしばらく少女を見ていた。その背の籠が小枝でいっぱいになるのを認めると、黒衣の若者が、「もういいでしょう。そろそろ里へ帰してあげましょう――」 いつもの方法で。
賢明にもその言葉は出さずに、けれどお見通しですよ、という目で白い衣の若者を面白そうに見る。
嫌な奴だ、そう思いながらも白い衣の若者は立ち上がり、天に向け両手をかざした。
白い吹雪よ、大吹雪よ
雪をかきたて、飛び散らせよ
おまえは、いぶれ おまえは、けぶれ
森の前で壁になれ *
穏やかだった森が一変する。雪を孕んだ一陣の強い風が少女を追い立てる。
――もうお帰り。早くおうちにお帰り。
はっとした少女が背を振り向くと、籠はいっぱいになっていた。
いつも一生懸命になりすぎて、籠が重みを増したことに気がつかない。放っておいたらどこまでも進み、いつまでも森を歩きかねない。
だから吹雪を起こして知らせてやるのだが――。
「もう少し穏やかなやり方もあるでしょうに……。まったくおまえときたら」
黒衣の若者は呆れた口調の裏にこっそりと笑いを忍ばせながら、少女の姿が雪の向こうに消えるのを見届ける。それからやはり隣で見守っていた若者の方に向き直った。
「最後の客人が帰っていきましたね。さあ、森を閉ざしてください」
白い衣の若者はさらに袂を振り、吹雪を散らす。やがてふたりの若者の姿も白の中に消えていった。
少女は家まで来ると重い籠を肩から下ろし、ほっと一息ついた。
今日は古い年の一番最後の日。この小枝を仕舞い終えれば、新しい年の最初の日が終わるまで、何もしなくていい日が来る。
少女に父母はいない。幼いときに死に別れ、庄屋の家に引き取られた。もの心つく頃からずっと働いてきて、それが当たり前だと思ってきたし、辛いとも思ったことがなかった。それでもわずかに一日、何もしなくていい日は待ち遠しかった。その嬉しさに自然と顔がほころぶ。
軒下に小枝を積み終えた少女が蓑と雪わら靴を脱ごうとすると、庄屋の内儀がやって来た。
「ちょっとお待ち。誰が仕事がお終いだと言った?」
狐のような細いつり目をさらにつり上げ、口端を卑しく引き上げていた。少女の笑みがしゅんと萎む。
「今し方、お城の姫さまからお触れがあってねえ」
妙な猫撫で声に少女はびくんと身体を震わせた。こういうときは無理難題を吹っかけるときである。
「明日一番にマツユキ草を持って来た者には籠いっぱいの
案の定、無茶苦茶なことを言ってくる。
「マツユキ草は春の花です。冬には咲かない花で……す……」
「だからこそ見つけた者にはご褒美を下さるんだよ。さあつべこべ言わずさっさと探しにお行き」
強欲さを剥き出しにして、さっきまで背負っていた籠よりひとまわり大きな籠を押しつける。
こうなったら何を言っても無駄だった。少女は黙って籠を受け取ると、再び雪の森へ足取り重く向かうしかなかった。
行けども行けども、森はただ銀世界に覆われているだけ。マツユキ草はおろか、夜の帷がおりた森では冬を生きる獣さえ己の穴蔵に身を潜めている。
音も色もない中を、目に滲むものを強く振り払い、ぎゅっと唇を噛みしめ歩いていたが、とうとう足が止まりそうになった。その時遠くに一点、赤く光るものを見つけた。少女を手招くようにそれは揺れている。少女は最後の気力を振り絞り赤い光を目指した。
木の枝を押し分けたり持ち上げたりしながら進むと、まわりがだんだん明るくなり、赤みを帯びた照り返しが、雪の上や地面の上をさっと走った。
急に目の前に広い空き地が広がる。その真ん中にたき火が高くさかんに燃えている。赤い光は揺らめく炎。そしてそれを囲む四人の若者がいた。
つと、黒衣の若者が少女に気づき声をかける。
「こんな日に、こんな時間に、こんなところで何をしている?」
「マツユキ草を探しに来たの」
「マツユキ草だって?」
若者たちは顔を見合わせた。
「残念だがそれは春の花なんだよ。冬の最中には咲かない花なんだ」
「そんなことわたしだって知ってる。だけどお城の姫さまがお触れを出して、庄屋さまはご褒美が欲しくて……。見つけられないと帰れないの」
少女の顔が悲しく沈む。
「とにかくこっちに来て火にあたりなさい」
黒衣の若者が優しく呼び寄せる。少女は戸惑いながらも素直に頷くと火の側まで寄り手をかざした。パチパチとたき火が燃える以外、森は静寂を保つ。
やがて少女の顔に赤味がさし、本来の人懐こい笑顔に戻る。
「火にあたらせてくれてありがとう。とっても温かくなったわ。じゃあわたしは行きま……」
「お待ちなさい。そう急ぐものではありません。我らは森を司る四つの季の精霊。古い年が去り、新しい年の深夜、我らはこうして年に一度だけ集まってお祝いするんだ。こんな日は何が起きても不思議はない、――そうでしょう、冬の精霊?」
そう言って白い衣の若者に振り返る。
雪と見紛うほどの白く透き通った肌に銀色の長い髪をした冬の精霊と呼ばれた若者は、横目で少女を捉える。瞳は凍える夜空に瞬く星の如くに冴え渡っていた。
「どうしようというのだ?」
「一時席を譲ってくださればいいのですよ」
冬の精霊の目はまだ少女を捉えていた。火の熱ささえ跳ね返すような冷徹な眼差しに、ちろりと妖しい光が宿る。何故か少女の胸がどきんと高鳴る。
やがておもむろに立ち上がると、長い杖で地面をたたいた。
すると若者たちを取り囲むように唸りを上げていた吹雪がおさまり、一面星空になる。枝が大揺れし、重い雪を地面に落とす。地面すれすれに雪煙が走り、雪の旋風が白い大地を露わにしていく。
続いて黒衣の若者――春の精霊が杖を受け取り、声を響かせる。
小川よ、走れよ、走れ
冬の寒さは森の枯れ木をくぐり
小鳥は歌をうたい始めた
そして、マツユキ草の花は開いた *
森の中も空き地もすべてが変わっていく。残雪は姿を溶かし、木々や大地が芽吹いて花を咲かせる。
少女はすっかり驚いて、ぽかんとまわりを見ていた。
「急ぎなさい。冬の精霊が私に譲ってくれた時間は僅かです。早くマツユキ草を摘んでこないと、じきに冬が戻ってきてしまう。さあ行きなさい」
「ありがとう!」
少女はくるりと身体を反転させると、言葉を風に乗せ駆けだした。
季の精霊たちはみな少女のことを知っていた。辛い境遇にもかかわらずいつも笑顔で、森の動物や花々に優しく、必要以上を森から奪わない少女をみな愛していた。人間界に手出しは出来ず見守るしかなかったが、だからこそ季の精霊たちはいつも少女を優しく森に迎入れていた。
――それは徹底的に人間を森から排除する冬の精霊も例外ではない。
と、春の精霊は秘かに確信していた。厳しすぎる寒さで人間を遠ざけ、稀に侵入する人間には容赦なく雪を叩きつけ、それで出口を見失ったとしても捨て置く非情な男だ。
だがあの少女にだけは違う。優しく迎え入れることも、吹荒ぶ雪を鎮めることもしないが、少女を拒まないことこそが何よりだ。
現に今だって、本人は無意識なのだろうが、少女の行った先をじっと見ている――。
「私の顔に何かついているのか?」
春の精霊の意味ありげな笑いにとっくに気づいていた冬の精霊が、思い切り不機嫌な声を出す。
「何も」
春の精霊は笑いを噛み殺した。
やがて少女が籠いっぱいにマツユキ草を摘んで戻ってきた。
「こんなにたくさん摘むことができました。ありがとう春の精霊さま」
「お礼は冬の精霊に言いなさい。席を譲ってくれたのは彼なのだから」
少女はくるりと冬の精霊に向き直ると満面の笑みを見せる。
けれど冬の精霊は少女が感謝の言葉を発する前に、さっさと春の精霊から杖を奪い返す。
「すぐに冬が戻る。早く森から出ろ」
その声を聞いたとき、少女はふと思い出した。
いつも雪混じりの風に乗って聞こえてくる声。
――もうお帰り。早くおうちにお帰り。
あの優しい声は冬の精霊さま……?
「あの……」 確かめようとしたときにはすでに冬の精霊は、季節を司る席についていた。
星空は厚い雲に隠れ、雪が渦巻き、木々がピシピシと音を立て凍り始めた。
「これを持っていけ」
冬の精霊が小さな石のついた丸い輪を少女に差し出した。
「これは?」
けれど冬の精霊はそれ以上何も言わない。仕方なく春の精霊が代わりに答えた。
「指にはめるもの、指輪と言います。おまえにはまだ大きすぎるので、ほらこうして紐を通して首にかけてなさい。そして何か困ったことが起きたらこの指輪を投げてこう言うんです――」
転がれ、転がれ、指輪よ
春の玄関口へ
夏の軒端へ
秋の高殿へ
そして、冬の絨毯の上を
新しい年のたき火を指して *
「そうすればいつでも私たちに会うことができる。けれどこのことは誰にも話してはいけないし、指輪もなくしてはいけません。それともうひとつ。どうしてマツユキ草を見つけたことも言ってはいけない。本当は季節を送ることは、私たちもやってはいけないことなんだ。いいですね?」
少女は首にかけられた指輪をぎゅっと握りしめ頷いた。
「もう行きなさい。森が再び閉ざされる前に」
少女はそれぞれの精霊たちにお礼を言うと、最後に一際高い椅子に座る冬の精霊に向かって、
「いつもありがとう。あなたのことは大好きよ」
笑顔で手を振り、里へと戻っていった。
「いつもありがとう、大好き……ですか? あの子に親切にしてるのは私たちも同じなのにねえ……」
春の精霊のにやにや笑いが止まらない。冬の精霊はまったく無視しているが、端から返事など期待してない春の精霊は一向に気にしない。
「南蛮の言い伝えによりますと、指輪を贈るということは……」
「黙れ」
「とにかくこれであの子も今日一日はゆっくりできるでしょう」
ところが冬の精霊は、愚かなことをぬかすな、とでも言わんばかりの目を向けた。
「人間の強欲さがどれほどのものか、まだわからんのか? 籠いっぱいの金子が貰えれば次は
きっと少女を問いつめるだろう。どこに咲いていた? もっと摘んでこい、と。少女が約束を破るとは思わないが、欲にかられた大人たちに責められれば崩れるほどに脆く弱い存在だ。
あの笑顔が涙で翳るのだろうか……。
指輪を渡したのはそれが故。
少女の涙を見るのが嫌なだけだった。
けれどまさしく里ではその通りになっていた。
庄屋夫婦が、もっと褒美を得るためにマツユキ草の咲いてる場所を教えろと少女に迫っていた。頑として口を割らない少女に内儀の叱咤の声が飛ぶ。びくっとした少女は思わず懐にしまってあった指輪を掴んでしまった。
そのしぐさを目敏く見つけた内儀が、無理矢理少女の懐に手を入れ、指輪を引き千切った。
「だめ! それだけは返してください!」
必死の様子の少女に、庄屋夫婦は底意地悪い笑いをみせる。
「返して欲しければ素直に教えることだね。何もおまえひとりを行かせるわけじゃない。今度はそりに樽を括りつけて行くから、わたしたちも行くよ。ね、おまえは道案内だけしてくれればいいんだよ」
少女に抗う術は、もうなかった。
半時も歩かぬうちに、庄屋夫婦は文句を言い出した。
「まだなのかい? おまえまさか嘘の道を教えてるんじゃないだろうね」
少女は答えられなかった。嘘をついてるわけではないが、指輪がなければ少女とて彼らに会えない。でも本当のことを言って、約束を破るわけにもいかない。
さらに半時歩いても、まわりの景色は変わらない。凍てつく寒さと勝手気ままに舞う雪は容赦なく三人を襲う。
とうとう内儀は怒り出し、懐から指輪を取り出して投げ捨てようとした。
「だめ! やめて!」
少女が叫んだ。内儀はにやりと笑った。やっぱり……。先ほどの様子から見て、少女にとってこの指輪がいかに大事か想像できた。
「だったら本当のことをお言い。でないと……」
また同じ所作をする。少女はぐっと唇を噛んだ。指輪は大事だけど、約束の方がもっと大事――。季の精霊さまたちにはもう逢えないかもしれないけど、仕方ない……。
「おまえの強情っぷりはもうたくさんだよ! こんなもの……!」
堪忍が切れ、内儀は指輪を湖に投げ捨てた。
その時、少女は思いだした。
転がれ、転がれ、指輪よ
春の玄関口へ
夏の軒端へ
秋の高殿へ
そして、冬の絨毯の上を
新しい年のたき火を指して *
途端に一陣の旋風が巻き起こり、雪が縦横無尽に荒ぶれる。三人は雪を避けるように頭を下げ、手で顔を覆う。ぴゅうぴゅうと風雪が荒れ狂う中、ふわっと少女の身体だけが雪柱に包まれ舞い上がり、そのまま消えていった。
雪溜まりの中に取り残された庄屋夫婦は、呆然と空を見上げていた。
何が起こったのかわからぬまま目を開けると、少女の前に四人の季の精霊たちがいた。
精霊たちはすべてを知っていた。だから少女の目に涙が溢れる前に、春の精霊がそれを押し止めた。
「泣くことはないんだよ。おまえは約束を守って、決して私たちのことは言わなかったし、マツユキ草を摘む方法も黙っていてくれた」
「でも……指輪を……指輪をなくしてしまったの」
「これのことか?」
冬の精霊が握っていた手を開き、手のひらに指輪を見せた。
「指輪!」
少女の顔がぱっと明るくなる。
「でもこれは冷たい湖に沈んでしまったのよ」
「拾い上げることなど造作ない」
嬉しさでそれ以上声が出ない様子の少女に、季の精霊たちは黙って微笑んでいた。
「もしおまえが指輪欲しさに我らのことを話していたら、二度と会うことはなかった」
「冬の精霊がおまえのために拾ってくれた指輪です。受け取りなさい」
春の精霊が優しく促す。
少女の手が差し出される。冬の精霊は小さな手を取ると、細い指に指輪をはめた。
不思議なことに、最初のときは大き過ぎたのに、今度はぴったりとはまった。
「これでもう誰もおまえから指輪を奪うことが出来ない」
おまえから少女を奪うことが出来ないのと同じくらいにね――。
春の精霊が、こっそりとつけ加えた。
転がれ、転がれ、指輪よ
春の玄関口へ
夏の軒端へ
秋の高殿へ
そして、冬の絨毯の上を
新しい年のたき火を指して *
* 「森は生きている」 より