た ま ゆ ら


くすんだ色の薄紙が書に挟まれていた。書から取り出し押し広げると、そこに現れたのは、花、というより、かつては花だったと呼ぶべきものか、色も香も疾うに失った、萎びただけのものだった。
殺生丸は軽く指で弾くと、すでに興味はなかった。
花とも呼べぬ代物が、りんの探しものだと知ったのはその後だった。あちこち探しまわった挙げ句、やっと殺生丸に借りた本に挟んだままを思い出したのだが、すでにそれは屋敷の者によって処分されていた。殺生丸が不要と見なしたものをいつまでも捨て置く者はこの屋敷にはいない。
りんは驚くでも落胆するでもなくただぽかんとしていた。それからまさか、という感じで大きく目を見開き、殺生丸をまじまじと見つめた。
「知ってたの……?」
「おまえのものとは知らなかったのだ」
りんのどこか責めるような物言いに、殺生丸も多少むっとする。知っていたら手元に戻してやった。だが知らなかったのだから仕方なかろう、と言外に含めたつもりだったが、
「やっぱり知ってたんだ」
今度ははっきりと非難が込められていた。さすがに殺生丸もおかしいと思った。まったく話が見えない。
「一体何を言っている?」
「だから……!」
りんははっとしたように口元を手で覆った。瞳が徐々に疑念の色へと変わり、さらに驚愕へと転換していった。
「まさか、覚えてない……?」
信じられない、お願いだから違うと言って。非難と懇願を湛えた瞳が訴える。
「本当に覚えてないの? あのお花のこと、忘れちゃったの?」
りんに詰め寄られ責め問われるが、殺生丸はますます困惑するばかりだった。
不意にりんの瞳が翳る。
「もういい……」
低く小さい、けれどはっきりした声だった。
「りん……」
だがりんは殺生丸の声を遮るように顔を背け、それ以上を拒絶した。やがてゆっくりと視線が殺生丸に戻ったとき、瞳は潤み怒りを孕んでいた。
「嫌い……。殺生丸さまなんて大嫌い……!」
りんは震える唇を噛みしめ、最後にもう一度殺生丸を睨むと黙って部屋から出て行った。
殺生丸は――。
呆然としたままだった。


障子を後ろ手に閉めたとたん膝の力が抜け、りんはその場にぺたんと座り込んでしまった。心臓が早鐘のように打っている。のどはからからで、上手く息もできない。
(何……? 私は何を言ったの……?)
(殺生丸さまに、何て……)
りんは混乱する頭を何とか落ち着かせ冷静になろうと試みるが、今しがた自分が言ったせりふを思い出すと、再び頭は混乱し顔からさっと血の気が引くのがわかった。
殺生丸に対して初めての反抗だった。初めてにしては度胸が良すぎた。
(あ、謝らなくちゃ……)
そう思って立ち上がろうとしたとき、不意に頭の隅から、どうして? とひどく醒めた声が聞こえた。途端に胸のどきどきも、息苦しさも鎮まった。
どうして謝らなくちゃいけないの? 何を謝るの?
りんは何も悪くない。あの花に気づきながら、何の反応も示さなかったのは殺生丸さまの方。
だって、あの花は――。
遠いあの日、幼い自分は殺生丸のあとを追っていた。
今でも何故あの時殺生丸について行こうと思ったのか、はっきりした答はわからない。ただ、何かに導かれるような、そんな感じだった。
けれど当然殺生丸が足を止めることなどなく、徐々に遠ざかる背中と沈む夕日にりんは心細くなっていって、いつしか追いかけるのをやめていた。
(やっぱり村に戻るしかないのかなあ……)
心の内でため息をつくと、一番星がまたたく暮空を見上げた。ふと目の端に何かが過ぎる。ぐるりと首をまわして見てみると、人も獣も寄せつけないような崖の中腹に、群れて咲くのを拒むかのように一輪の花が咲いていた。花弁は茜に染まる景色の中でさえ鮮やかな紫を誇っていた。
孤高に咲くその花と殺生丸の面影が重なる。
りんは魅入られたように近づくと崖を登り始めた。だが存外に柔い岩肌に幾度となく滑り落ちそうになる。それでも諦めることなく、あとちょっと……と手を伸ばしかけたとき、突然足元が崩れた。
あっ、と思った瞬間りんの体はふわりと宙を浮き、気づいた時には地面に立っていた。何が何だかわからずに目をぱちくりさせていると、いきなり目の前にあの花が現れた。りんは呆気にとられたままだった。
「いらんのか」
低い声にはっと我に返ると、そこに殺生丸が立っていた。
「あ、ありがとう……」
感謝の言葉を唇で伝えたつもりだったが、次の瞬間りんは、あっ……! と自分の口を押さえた。
(声が、出た……!)
それは殺生丸も気がついたらしい。じっとりんを見つめる殺生丸は、すっと手を差し伸べりんの頬を撫でた。少しひんやりした手はすぐに離れたが、頬には温かい感触が残った。
やがて殺生丸はくるりと背を向け 「行くぞ」 とだけ言って歩き始めた。
一瞬きょとんとしたりんは、しかしすぐに 「はい!」 と返事をして駆けだした。
もしあの時、あの場所にあの花が咲いていなかったら、自分はそのまま村に戻っただろうし、殺生丸との絆もそこで途切れていただろうと思う。
儚くすれ違うだけだった運命を、あの花は紡いでくれたのだ。
いつしかりんはそう思うようになった。そしてそれは殺生丸も同じだと思っていた。
でも――。
殺生丸さまの心にはあの花も、あの日の出来事も――もしかしたら今までの総ては――何も残っていなかったんだ。りんは、殺生丸さまと一緒に過ごしたひとつひとつを全部覚えてるのに……。
大切な想いが壊れていくようで、りんはどうしても殺生丸を許せなかった。


夜啼鳥の声がした。部屋の中は闇に沈み、月の光が障子を仄かに照らしていた。
りんは昼間の出来事をぼんやりと思い出した。何か現実味がない。遠い国の出来事か、あるいは遙か昔の出来事のように思われる。
自分の部屋に戻ったときは、今にも殺生丸がやって来るかと緊張していた。廊下に足音がするたびに障子に影が映るたびに身構えたが、結局殺生丸は来なかった。
殺生丸を許せない気持ちとは別に、一時の興奮がおさまった今はそれが虚しくて寂しかった。
りんはのろのろと立ち上がると、窓辺から月を見上げる。月は天上に上がっていた。いつも殺生丸と一緒に眺める月が涙で曇る。
りんが何をしようと何を言おうと何を思おうと、殺生丸さまは気にもとめないんだ。だから何も覚えてないんだ。いつか、一緒に月を見たことさえ忘れてしまうの……?
「いつまで拗ねている?」
声に驚き振り向くと、殺生丸が立っていた。表情も声音もいつもと変わりない。
やっぱり何も変わらない……。これ以上惨めな気持ちになりたくなかったりんは、顔を背けて出ていこうとした。だが殺生丸に腕をつかまれる。
「二度はない」
そう言って殺生丸はりんを肩に担ぎ上げた。
「きゃああ……! 降ろして!」
りんは足をばたつかせ抗議するが、あっさりと押さえつけられた。
「離して! 降ろしてってば! 殺生丸さまなんて嫌い!」
りんは殺生丸の背中を両のこぶしで思い切り叩くが、殺生丸は無視したままだった。途中すれ違う屋敷の者たちは一瞬ぎょっとするが、すぐに微笑って通り過ぎる。
ようやくりんが降ろされたのは、寝所の前だった。りんの顔が強ばる。
「まさか……力ずくで……?」
「何……!?」
あまりにも突飛なせりふに殺生丸は目を剥くが、馬鹿馬鹿しくて答える気にもならなかったようだ。かわりに目線で障子を指し示す。
開けろってこと……? 
りんは少しばかりばつの悪い思いをしながら、渋々といった表情で障子を開けた。
瞬間、芳しい香りがりんを包みこむ。そして部屋を覗きこんだりんはあっと息を呑みこんだ。
部屋中に花が――あの花が――敷き詰められていた。薄明かりに紫が鮮やかに映える。
「これで満足か?」
呆気にとられたまま、りんは殺生丸を顧みる。心なしか殺生丸の顔は青ざめていた。りんにとっては芳しい花の香でも、殺生丸にはきついだけの匂いなのだろう。
りんは泣いていいのか、笑っていいのかわからなかった。
殺生丸さまは全然わかってない。どんなにたくさんの花々であろうと、どんなに豪華な花々であろうと、あの枯れ花に託された想いに適うわけないのに――。
「殺生丸さまのばか……」
泣き笑いの顔で呟くと、殺生丸の首に両手をまわした。精一杯背伸びをしても尚、殺生丸の耳許にまでは届かない。けれど思いのたけを込めて囁いた。
「ありがとう殺生丸さま……大好きよ」
殺生丸が思い出してくれたのか、忘れたままなのか、そんなことはもうどうでもよかった。あの花の存在さえ頭の中からは消えていた。
ただりんのためにと、本当は辛いはずなのにこうして部屋中に花を散りばめてくれた。愛しくて切なくて、狂おしいほどの思いを、殺生丸さまはりんに与えてくれる。これ以上ほかに何を望むの?
過去なんていらない。この一瞬があればいい。
りんの身体の奥深くから熱い思いが込み上げてきた。かつて感じたことないほどの、強烈で目の眩むような衝撃。本能が目覚め、原始の鼓動が力強く打ち響く。
りんはさらに両手に力を込め、殺生丸をぎゅっと抱きしめた。
「り……?」
「しーっ、黙って……」
幾度となく受けてきた殺生丸の唇を、初めてりんは自分から重ねた。羞恥もためらいもない。ひたすらに殺生丸を愛したい。それだけだった。
りんは自らの唇で殺生丸の唇を愛撫する。啄むように、吸いつくように。舌で唇をなぞり、殺生丸のそれを絡め取る。殺生丸がりんの顔をのけ反らせ、深い口づけを返してくる。頭の芯が痺れるような感覚に、りんは意識が朦朧となりそうだった。
「ま、待って……。い、今はりんの好きにさせて……」
りんはありったけの意志で殺生丸を押し戻すと手をすべらせ、指先を殺生丸の帯にかけた。





自らも帯を解いたりんを、殺生丸は壁にもたれたまま引き寄せた。りんは恥じらうように目を伏せると、殺生丸の上に身をあずけた。
殺生丸はりんの顎に指をかけ、己の視線と絡ませる。潤んで熱を帯びたりんの瞳は、それだけで殺生丸を熱くする。殺生丸は愛おしげな眼差しをりんの唇からのど元に這わせ、再び瞳に戻した。
覚えてないの? 忘れちゃったの? 必死に訴えるりんに、正直戸惑うだけだった。殺生丸にとって過去は記憶と残像の事実でしかなく、過ぎ去ったものに想いを馳せたり、ものに託したりするものではなかった。
これまでは。
だが、今は――。
殺生丸はりんの唇を奪い味わった。手は全身を優しく愛撫し、やがて柔らかなふくらみを覆う。ふくらみの先端は殺生丸を待ちわびて固くなっていた。最初は指で、次に唇と舌で愛撫する。殺生丸の甘い責め苦にりんが妖艶な喘ぎを上げ、それが殺生丸の欲情をさらに煽っていく。
己の上でりんの秘めやかな箇所が熱く潤う。りんの絶頂が近いことを知った殺生丸は、舌で胸を愛撫しながら手をりんの中心に這わせた。
「だ、だめ……待って……」
喘ぎの切れ切れにりんが押し止めようとする。殺生丸は従う気などまるでなかったが、
「お願い……」
とっておきの甘い声で囁かれると弱い。不本意ながらも僅かに身体を離すと、りんの薄桃に上気した顔が殺生丸に向けられる。瞳に確固たる決意が込められた妖しい光が輝いていた。
はっとした。さっきの言葉を本気で実行するつもりか――。
はっきりと意志をもったりんの手が真っ直ぐに殺生丸の中心に進み、次の瞬間、それは小さな温かい手に包まれた。繊細な指が性急と緩慢を繰り返して、殺生丸を高みへといざなう。めくるめくような感覚に、殺生丸は全身を震わせた。
これだけでも耐え難いのに、さらなる快感が殺生丸を貫く。濡れそぼった唇が殺生丸を捉え、容赦ない攻撃を仕掛けてきた。ざらついた舌の感触と動きに思考を停止させられ、感じるのは強烈な官能だけだった。己の猛ぶりが熱く激しく脈打つ。
「くっ……!」
くいしばってた歯の間から喘ぎが漏れる。これ以上りんに弄ばれたら、どうにかなってしまいそうだ……。
殺生丸はりんを引き上げると、自身の高ぶりをりんの下腹部に密着させた。りんがしなやかに身体を動かし、一気に殺生丸の高まりを自分の中に迎え入れる。うめき声とともに殺生丸が突き上げた。
激情の解放を求めて、りんと殺生丸の律動が重なり合っていく。静まりかえった部屋に、ふたりの濃密な息づかいだけが響いていた。
「せっ……しょうまる……さま、もう……だめ……」
切なさと恍惚が入り混じった声でりんが喘いだ。殺生丸の肩に爪がくいこむ。
殺生丸も限界だった。腰をつかむ手にさらに力をこめると、欲望と激情の解放を求め、りんを強く貫いた。


だが、今は――。
いつか、むせ返るようなこの香を嗅いだとき、私は思い出すのだろうか。
鮮やかな紫の中に浮かぶ白い肌を、甘く切なげに漏れる吐息を、けぶる瞳を。
この刹那を――。



<作中イラスト マモルさま>