月 下 幽 遠


(一)


仄暗い御堂で、ひとりの老いた尼僧が神仏に経を唱えていた。
その指先は摩羅まらの密教の印を結んでいる。護摩壇に上がる炎はますます大きく揺らめき、尼僧の声も一段とおどろおどろしていった。
やがて尼僧の体が大きく揺れ始め、陶酔したように目は虚ろになる。
それでも経を唱え続け、やがて一瞬正気に戻ると大きく印をきった。
(来る……。とてつもない大きな力が……)
水鏡に映る影を見ながら、老尼は不敵な笑みを浮かべた。


うららかな日射しの昼下がり。邪見とりんはともにお留守番。
ひとり遊びに飽きたりんは、木陰で昼寝をしている邪見を揺り起こす。
「ねえ邪見さま。かくれんぼしよう」
せっかく鬼のいぬ間の骨休め、とばかり惰眠をむさぼっていた邪見は、思いっきり迷惑げな顔をして見せる。
「かくれんぼじゃと? そんなもん、何でわしがせにゃあならんのだ。いいから花でも摘んでおれ」
「りんは邪見さまと遊びたいの」
邪見の思惑もどこ吹く風、りんはにこっと笑う。
まったく……と邪見は思う。こんな笑顔でこんな風に言われたら、殺生丸さまじゃないがついほだされてしまうわな。まるで喜んで孫にふりまわされる爺のようじゃ。もっとも最近じゃ、案外嬉しかったりするわしでもあるが……。
「それじゃここで十まで数えておれ。その間にわしが……」
「違うよ。りんが隠れるから邪見さまが探すの」
わ、わしが鬼? ちょっと待てりん、と言うまもなくりんは駆けだしていた。
「あまり遠くへ行くでないぞ!」
その背中に声をかけると、はあい、と返事が返ってきた。
やれやれわしも甘いな、と思いながら、邪見は素直に屈み込み目を閉じて数を数え始めた。
「……九、十。もういいか?」
さほど遠くない場所から、「もういいよー」 と声が聞こえる。
りんは自分の声の方に邪見が来ることを初めから予想していた。だから隠れながら移動できる背丈の高い草むらを選んで、まず最初はそこに隠れていた。鬼がこっちに来たらそうっと移動して、反対側の岩に隠れるつもりだ。
まさにその通り、邪見が来る。りんはくすくす笑いを堪えながら、音を立てぬように移動する。岩の陰からこっそり様子を窺うと、案の定邪見はまるきり反対側を探している。
次はどこに隠れようかな、と思っていると、「嬢、ひとりでおるのか?」 と声がした。
どきっとして振り向くと、白い頭巾をかぶった尼僧が立っていた。皺のよった顔に柔和な笑みを浮かべた尼僧にほっとし、りんも笑顔を向ける。
「ううん、邪見さまと一緒。今ねかくれんぼしているの。邪見さまが鬼で、りんが隠れてるの」
「ほう……隠れておるのか。それは好都合……」
尼僧の柔和な顔がみるみる醜悪なものに変わる。あっ怖い……と思った瞬間、りんの意識は遠のいた。
「あとはこの餌に食い付くのを待つだけじゃ……」
りんを腕に捉えたまま、尼僧はふっふと不気味な笑い声を上げた。


「まったくどこに隠れておる……」
まだ異変に気づかない邪見はぶつぶつ言いながらあちこち探している。
やがて殺生丸が戻ってきた。心なしか表情が険しい。
「りんはどうした?」
声も固い。ちょっとくらりんの姿が見えないだけで何もそんなに……と気軽に考えていた邪見も、いつもと違う様子の殺生丸に不安になった。
「わ、わしとかくれんぼをしていて、その……りんはどこかに隠れてるはず……」
最後まで言わせぬ、きつい視線が邪見に向けられる。
「きさまは気づかなかったのか?」
滅多に聞かぬ主の声の荒々しさに、ようやく邪見も異変が起きたらしいと気づく。これほど探しても見つけられなかったのは、そういうわけであって……。こ、これは非常にまずい……。
ちっ、という舌打ちに、邪見の心臓は今にも口から飛び出さんばかりだった。恐る恐る主の顔を見ると、嘗て見たこともないくらいの、冷たい視線が突き刺さる。邪見はすっかり青くなった顔で、その場に立ち竦んでしまった。
ようやく事の重大さに気づいたらしい邪見を後目に、殺生丸はある方向へ向かって歩き出していた。この間抜けな従僕への仕置きはこの際後回しにして、まずはりんを探し出さなくてはならない。
ずっと手前からりんと邪見以外に、別のにおいがあるのに気づいていた。それは絡みつくような護摩炊きの芥子のにおい。もしりんがこのにおいを発する人物と一緒ならば、少々やっかいなことになる。そして邪見に知られぬようりんを連れ去ったとしたら、りんの身に危険が迫ってるということか。
嫌な予感を感じつつも、ともかくりんの匂いのあとを追いかけた。


「獲物がかかったか」
水鏡に白銀の妖の姿を認め、尼僧はひとりごちし満足する。
力を得て何が悪い。精進したところで、所詮は人間。人間が人間を救える筈もなく、乱れたこの世を平定するにはひと以上の力が必要だ。神や仏がせんなら、わしがなりかわるだけだ。
あの大妖の噂は聞いていた。とてつもない力を持ちながら、唯一最大の弱点が、今ここにいるわらしっ子とはのう……。
普通であればとうてい手出しの出来ぬ妖怪ではあるが、存外にも容易にわらしっ子を我が手の内に捉えることが出来た。摩羅の “水鏡の術” のお陰である。あの妖怪とその連れの動きが、水鏡を通して手に取るように分かったからだこそだ。くそ坊主どもは邪教だと言い張ってわしを破門しよったが、結局は力が勝つんじゃ。そして間もなくわしは、さらに強大な力を手に入れる。
この寺には摩羅の結界が張ってある。いくら大妖でも、いや、大妖だからこそ妖力を纏ったままでは入れない。妖力を封印しなければ、一歩たりとも寺に足は踏み入れられない。妖力を封印することさえ出来れば、いくら大妖と言え、たかが若造。摩羅の術で殺すのはわけない。殺したあと、その肝を喰らえばわしはあの妖怪の力を得ることができる。
願ってもない大物。老尼の顔は醜い笑いで歪んだ。


りんの匂いを追って辿り着いたのは、やはり寺だった。案の定、結界が張り巡らされている。どの程度の結界かは知らぬが、無理にでも入れば己の妖力がある程度弱まるのは必至である。
殺生丸は、敵の狙いは己だと確信した。殺生丸が来ることを承知でりんを連れ去ったのだ。殺生丸が容易に入れぬよう、結界を張っているのが何よりだ。
己を操ろうとする愚か者は、人間の坊主か、それともなりすました物の怪か。
だが山門に現れたのは、意外にも老いた尼僧であった。
見くびられたものよ。殺生丸は心の内で笑う。あんな弱々しい老女、妖力を使うまでもない。己の指一本で充分だ。
殺生丸は一時でも逡巡した己が馬鹿馬鹿しくなり、足を一歩進めた。
「早まるな。これはそこらの坊主の結界とは違うぞ。摩羅の結界だ」
摩羅の結界。聞いたことがある。妖怪封じとして一番懼れられてるものだ。入るのは簡単である。自らの妖力を封印するだけでいい。しかしそれでは丸裸も同然だ。封印せず無理に入ろうとすればその瞬間、己の妖力に喰われてしまう。
足の止まった殺生丸を見遣り、老尼はにやりと笑う。
「さてどうするかの? わらしっ子は御堂の中じゃ。怪我ひとつしとらんから安心せい。行きたければ勝手に行け。邪魔はせん」
そういうことか。つまりはこの殺生丸の妖力を封じるのが目的なわけだ。こんな結界ごときで己の命を狙うとは。
愚かな。人間の浅知恵にはほとほと呆れる。確かに摩羅の結界は雑魚どもには脅威だろうが、この殺生丸に通用するとでも思っていたか。邪教である摩羅教ならば、その結界もまた邪気まみれである。そのようなもの、滅するのは造作ない。
今度は殺生丸がにやりと笑う。馬鹿が――。
殺生丸が結界に触れた途端、結界はあっさりと解かれた。老尼の顔色が変わる。殺生丸は表情も変えずにその爪で老尼の首を狙う。
「ま、待て。わ、わしの話を聞け」
怯えながらも何か企みを含む目に、殺生丸の爪が薄皮一枚のところで止まった。
「……言ってみろ」
「こういうこともあろうかと思って、わらしっ子には術をかけておいた。それを解けるのはこのわしだけじゃ、だから……」
奥の手を出すことでいくぶん余裕を取り戻したかの尼僧だったが、次の瞬間、自分の喉がかっ切られていること気づいた。
何故じゃ? 老尼は驚愕の目をむいたまま、崩れ落ちるようにその場に倒れる。
「きさま如きの下衆に、りんの命を弄びなどさせぬ」
殺生丸の言葉をこの世の最期に聞いて、老尼は事切れた。
殺生丸はりんのいる御堂に急ぐ。護摩と芥子のにおいが強く残る空間に、りんは横たわっていた。外見に異常はない。尼が言った通り怪我ひとつしていない。規則正しい寝息を立てて眠っているだけである。
だが、長い睫が露を含んだように濡れそぼっている。頬に幾筋かの涙の跡。
「りん……?」
右腕でりんの上体を抱き起こす。ゆっくりと開かれた瞳は涙に濡れ、そこに映る己の姿はぼやけている。殺生丸に焦点を合わせることなく、虚ろな目は宙を彷徨い、やがて何もない空間の一点に目を止めてりんは両手を掲げた。
「おとう……おっかあ……あんちゃん……」
寝ぼけているのか? 腕に力を込め、りんの肩を揺さぶる。だが思いもかけない強い意志で、りんは殺生丸の腕から逃れようともがく。
「りん!」 もはや殺生丸の声はりんに届いていないかのようだった。ひたすら空虚に向かい、りんは父母を呼び続ける。
ひゅうひゅうという空音に混じって、老尼の卑げた声が聞こえた。
――術を解かぬ限り娘は死ぬぞ……。
ぱっと振り向くが尼僧の実体はなかった。
幻想……?
殺生丸ははっとする。りんは幻想を見ているのか? これが老尼のかけた術とすれば、その幻想に捕まれば、りんは……。
老尼を問答無用で殺したのは、早計だったか? いや、たとえ生かしておいても結果は同じだろう。ならば己が解いてやるしかない。だがすでに己の声さえ届かぬりんを、どうしたら正気に戻せる?
がくんと殺生丸の腕が重くなる。泣きじゃくり、父母の名を呼び続けたりんが、その幼い体力を使いきり、疲れ切って再び眠りに落ちていた。聞こえてくるのは安らかな寝息。深い眠りが一時的にも幻想を消し去ったかのようだった。
胸が痛む。たとえ幻想であっても、親兄弟を求めて泣くりんの姿が切なかった。親兄弟が恋しくて泣くほどに、りんはまだ幼い。その事実を忘れていたわけではない。ただいつも己に向けられ、己を迎え入れるのは笑顔だった。だからそれが当たり前だと思っていた。
親兄弟を失った悲しみを、小さな心の奥底に沈めていたりんが愛しく哀れに思える。
――りん……。
必ずおまえを取り戻す。