月 下 幽 遠


(二)


殺生丸がりんを抱いて戻ってくる姿を見つけた邪見はほっと安堵しかけたが、先ほどよりさらに厳しい表情に、まさかりんの身に……と不吉な思いが頭を過ぎる。
殺生丸はそんな邪見に目もくれず、双頭の竜にりんを抱きかかえたまままたがり、再びどこかへ行こうとしていた。邪見は慌てて殺生丸の元に駆け寄った。
「わしもお供させてください! わしに出来ることは何でも致します。ですから……」
今回のことに関して、邪見には怒り以上のものを覚えていた殺生丸だが、邪見がりんを可愛がっていることは承知していたし、りんもまた邪見を慕っている。苦々しくは思うが、仕方なく供を許した。
「りんをしっかりとかかえていろ。次に何かあったらきさまの命はない」
長年の忠誠もまるで無視したひどく冷酷な言葉に傷つく余裕すらなく、邪見は今の言葉を肝にたたき込む。
殺生丸が一気に虚空に駆け上がると、邪見とりんを乗せた双頭の竜もあとに続いた。
殺生丸がどこに向かっているのか、邪見には皆目見当つかなかった。そもそも、りんに何が起きたのかさえもわからない。見たところただ眠っているだけのようだ。
それでも殺生丸の尋常ならぬ様子に、何かとてつもないことが起きたのだけはわかる。
(わしだっておまえのためなら何だってする。だから死ぬようなことだけは……)
その時、りんがうなされたような声をだし、邪見の腕をほどこうと体をねじった。そして双頭の竜の背に乗っていることも知らず、立ち上がろうとした。
慌てて押さえつける邪見より先に、自分の背に乗っている少女の異変を察した竜たちが、胴体を巧みに保つ。それ気づいた殺生丸が、竜たちに着地の指示を出す。双頭の竜は微妙に均衡をとりながら、素早く、けれど確実に地面に降り立った。
りんは信じられない力で邪見の腕を振り払い、まるで夢遊してるかのように歩き出した。
「だめだ! 行くな、りん!」
咄嗟にりんの腕を掴んだ殺生丸は、そのまま己の胸に引き寄せた。りんは大きくいやいやをして、殺生丸の腕を必死で振りほどこうとした。
邪見は目の前の光景を呆然とした面持ちで見ていた。りんが……りんが殺生丸さまから逃れようとしておる……。 「殺生丸さま、殺生丸さま」 とおまえはそれしか知らんのか、と突っ込みを入れたくなるくらい、口を開けばその名を呼んでたおまえが、今まで一度たりとも口にしなかった親兄弟の名を悲しい声で呼んでいる。
邪見は本当に今の今まで、りんに親兄弟がいたことを失念していた。まるで生まれたときからずっと一緒にいたものだと、そう思い込んでいた。
邪見の目に、じわじわと涙が込み上げてくる。
(おまえには殺生丸さまがいるではないか……。それにこのわしだって……)
泣き続け、叫び続けてるりんの声は掠れていた。それでもなお、声を振り絞る姿が痛ましい。
――おまえが見てる父母は幻なのだ。
何度も言いかけて、言えなかった。たとえりんの耳に届かずとも、己の腕の中で全身をよじり、もがき、父母を慕って泣くりんに、どうしても言えなかった。
――私を見ろ。私だけを見るんだ!
――助けて、殺生丸さま……。
はっとしてりんを見下ろす。りんの目がしっかりと殺生丸を見つめ返していた。が、次の瞬間、がくんと頭を垂れ、意識を失う。
己の声を聞き、幻想に操られながらもりんもまた抗っているのか?
急がねば。このままではりんの体が先に参ってしまう。再び幻想が襲ってくるその前に術を解いてやらねばならない。
殺生丸はそのまままりんを抱き上げ、再び空へと駆け上がった。


――その頃。
犬夜叉たちは楓の村にいた。かごめが “テスト” とやらで現代に戻っている間、滋養と鋭気を補給していた。
「こうちょくちょくあっちに行かれたんじゃ、奈落探しもはかどらねえぜ」
「かごめちゃんだってかごめちゃんの生活があるんだから、そんな風に言わないの」
「本当はかごめがいなくて寂しいんじゃろ?」
「素直が一番ですよ、犬夜叉」
そんな他愛もない会話をしてたとき、急に犬夜叉が背筋を伸ばし犬耳をぴくぴくと動かす。
「何しに来やがった……?」
言うが早いか、外に飛び出していた。
そこで目にしたものはとうてい信じられるものでなく、犬夜叉を始め続いて出てきた面々は言葉も出なかった。
殺生丸がりんを抱っこしている……?
すっと殺生丸の足が動いて、犬夜叉が一拍遅れて反応する。
「てめえ、こんなところまで……」
「きさまに用などない」
気勢をそがれてぽかんとしている犬夜叉には目もくれず、殺生丸は弥勒の前に立った。
「摩羅を、知っているか?」
「摩羅……」
呟くと、殺生丸の腕の中のりんと殺生丸を交互に見る。そうか……弥勒は殺生丸がりんを抱いてわざわざここまで来た理由を理解した。
「とにかく中へ。巫女さまもいらっしゃいます」
弥勒は楓に――多分おれの考えに間違いないだろう――いきさつを話した。
弥勒から話をひと通り聞き終えた楓は、弥勒同様、難しい顔をしていた。
「私もいろいろとまやかしの術は知っておりますが、摩羅となると……」
「わしの力でも何とも……。桔梗おねえさまだったらあるいは、と思うのだが……」
そこにいる全員が、りんを助けてあげたいと思いながらその手だてを見つけられない事実に口を噤む。重い空気が流れる中、突然思いついたように犬夜叉が言った。
「かごめ……かごめがいるじゃねえか! あいつだって桔梗と同じくらいの力持ってるし、あいつなら……」
「でも方法を、術を解く儀式の仕方は知らないでしょう」
「そんなもん教えれば……」
「一朝一夕で身に付くものではありませんよ。却って生兵法は危険です」
再び空気が色濃く沈む。「とにかく」 楓が殺生丸に視線を向ける。
「今わしに出来ることは、その嬢の幻想を一時的に封印してやることだけだ。だが封印がいつまで効くかは保証できん。明日か、ひと月後か。その間に術を解くものを探し出すか……。ただし封印が効力を失えば、その時こそ嬢の命はないぞ。それでも良いのなら儀式をほどこしてしんぜるが」
殺生丸は黙ったままだった。弥勒はふと、殺生丸の表情に違和感を感じた。
楓の言葉に迷ってる風でもなく、八方塞がりの状況に困惑している風でもない。それよりもっと、何か辛い決断を下さねばならない苦悩の表情だった。
はっとした。
「兄上殿、ちょっとよろしいですか?」
殺生丸に有無を言わせず、さっさと家の外へ連れ出す。
「あなたはもしかして……術を解く方法を知っていらっしゃる?」
否定の言葉も肯定の言葉もないが、弥勒は確信した。そして殺生丸の腰のものに目を落とす。
――天生牙。
この世のものでない幻想ならば、癒しの刀で斬れる。殺生丸は最初からそれを知っていたはずだ。知っていながら、何故?
弥勒は視線を殺生丸に戻す。金の眸は暗く沈んでいた。
「幻とはいえ、りんの親兄弟を斬ることは出来ない……」
「おまえならと思ったが、見込み違いだったようだ」
殺生丸は踵を返すと、軽く地面を蹴り上げ虚空へと飛び去った。
戸口で様子を窺っていた犬夜叉は、突然にやって来ては挨拶もなしに去っていく殺生丸に憤慨する。
「何でえ、あいつは! おれだってあの子の心配はしてたんだぜ。ひと言くらいあってもバチは当たんねえってもんなのによ」
「そんなの今に始まった事じゃないでしょう。それより今は、殺生丸の気持ちを考えてあげなさい」
「だがなあ……」 最後に出てきた楓が、殺生丸の去った彼方を見つめながら、弥勒に問う。
「摩羅の術というのはものすごく強い。あんな小さな子だったらすぐにでも幻想に捕まるはずなのに、それが不思議だ。術をも凌ぐ、何か強い想いがあるんだろうか?」
弥勒は楓の言葉に微笑み、同じく彼方に目を向けた。
それは――。
いつの日かあのふたりが答えを見つけるでしょうね、弥勒はそう心の中で呟いた。


りん。
私はおまえに許しは請わぬ。おまえの父母を斬ることでおまえを救えるのなら、私はもう躊躇わない。
これまで何百、何千を爪で切り裂き、刀で斬り捨ててきた。己の道を阻むものを殺すことに何の迷いもなく、感情もなく。
そしておまえを奪うものあれば、何人であれ殺すを厭わない。


殺生丸は天生牙を振るうその腕に、力を込めた。


小鳥が囀り、木々を渡る風が寝ているりんの頬を撫で、吹き抜ける。いつもの眠りから目覚めたりんは、大きく伸びをした。
「あれ……? 何かものすごーくおなか空いてるんだけど。邪見さま、何か食べるものなあい?」
「何じゃおまえは起きる早々に。何も覚え……」
「邪見」
何も覚えてないのならそれでいい。いつかおまえに話すその日まで、おまえはおまえのままでいて欲しい。いつかおまえが知るその日まで、この重い真実を知るのは私だけでいい。
りん。
その時おまえは、それでも私に笑顔を向けるだろうか?