(一)


何の迷いもなく、ただ己を信じているその瞳は、今は安心しきった寝顔とともに閉じられている。
私はこの瞳に応えることが出来るのか?
今までは、出来た。いや、出来ると信じてた。
あの時、りんが冥界の犬に攫われたときも、私は簡単に連れ戻せるはずだった。りんが息をしてないと知ったときも、まだ私は己を、天生牙を信じてた。
だが、天生牙は沈黙したままだった。
その意味するところを悟ったとき、初めて己の浅はかさを思い知った。それでも一縷の望みを求め、冥界の闇へと進んだ。己の無力さをさらに思い知るとも知らずに。
今りんが健やかな寝息を立てているのは、私の力ではない。私はりんを、守りきれなかった。
母の言葉とともに、己を悔いた言葉が浮かぶ。
“人里に残してくれば……”


その時、微かだが地を駆ける音を感じた。やがてそれは、地響きとともに近づき大勢の兵が殺生丸の前に現れた。りんはすでに目を醒ましており、邪見とともに木陰に身を潜めていた。
相手が何人いようが、それぞれに武器を携えていようが、殺生丸の敵にもならない。
殺生丸はゆっくりと刀の柄に手をそえる。兵たちも腰に手を当てる。
「待て!」 兵たちの後方から、馬にまたがった武将が現れ、血気立つ兵たちを片手で制した。
眼孔鋭く、幾多の戦場をくぐり抜けてきたような精悍さを纏ったその武将は、しかし、殺生丸に対し敵意はなかった。
武将は馬から降り、腰のものを鞘ごと抜いて近くの兵に預けると、殺生丸に近づいた。
「貴殿は、殺生丸殿か?」
その声や態度には恐懼きょうくも萎縮もなかった。
「何者だ?」
「これは失礼申した。私はここより東に城を構える者。貴殿が殺生丸殿であれば、その連れの少女に会わせていただきたい」
その単刀直入な物言いに、殺生丸は武将を見直した。己を侮ってはいないが、臆することもない。その態度に感心はするものの、嫌な胸騒ぎも感じる。
つと、武将の視線が殺生丸の肩越しに移った。好奇心を抑えきれず、りんが木陰から顔をのぞかせていた。武将の鋭い眼が、ふと和らぐ。
「おまえが、りん……だな?」
突然見知らぬ武将に自分の名を呼ばれ、驚いたりんは再び身を隠した。さらに確かめようと一歩踏み出した武将を、殺生丸は無言で押し止めた。金の眸が剣呑に光る。武将は一瞬怯むが、その素振りを隠し、「その娘は、私の妹の子、私の姪にあたる」 一拍おき、続ける。
「率直に申し上げる。その娘を引き取りたい」
「何……?」
その場の時間が止まったかのように、ふたりの男は身動みじろぎもせず見合っていた。
先に口を開いたのは、武将だった。
「私の妹は、この戦国の世に武家の娘として生きるのを嫌い、農民出の一介の兵と城を飛び出し、小作人に成り下がった。その後妹一家は惨殺されたと聞いたが、すでに縁を切っていた私には関係なかった」
殺生丸は口を挟まず、先を促させた。
「だが、戦の傷が元で跡継ぎが望めなくなった。養子を、と考えていたとき、妹のひとり娘が生き残り、貴殿と一緒にいるという噂を聞いた。妹とは絶縁状態だったが、やはり跡継ぎには自分の血を引く者が欲しかった。りんはこの世でたったひとりの身内。お渡し願いたい」
武将は、深々と頭を下げた。
「くだらんまつりごとに、りんを利用するというのか?」
「今まで捨ておきながら、勝手申すのは重々承知の上。くだらん政に利用するのか、という貴殿の責めに返す言葉もない。だが……」
武将の眼が再び鋭くなる。
「人の子は、人の世で生きるのが道理と申しましょう」
自分を前に一歩も退かぬこの男、殺生丸は黙って見据えた。
りんを守りきれなかった己の姿が蘇る。
いずれ散る命なら、己と行動を共にすることで不本意な死に方をするより、たとえその命を全うできずとも、人の世で、人の子として死ぬ方が幸せなのかもしれない。
ならば今、この男に託すのが一番良いだろう。戦国の世、一国一城の主として生き抜いてこれたのは、武力もさることながら、知力にも長けてるからだろう。
この男なら、りんを託せる。
長い沈黙の後、やがて、「りん」 と呼ぶ。
りんは、不安そうな顔で木陰から出てきた。何か良くないことが起きそうな予感に返事も出来なかった。自分の知らないところで、知らないうちに何かが変わろうとしている。いつもの殺生丸さまと何かが違う……。
「りん……」 殺生丸が振り向き、りんと眼を合わせる。その眼がふっと翳りを帯びる。
いやだ、何も言わないで。お願い、殺生丸さま……。声にならない声でりんは叫び、頭を振った。
殺生丸は立ち竦むりんに静かに近づき、その頭に手を乗せ、頬に滑らせる。愛おしそうにその頬を撫で、やがて想いを断ち切るように離す。
「人の世へ、戻れ」
りんの両眼から涙があふれる。いや……いやだ……「いや!」 殺生丸の袂を強く掴む。
だが殺生丸は無情にそれを振り払い、りんの脇をすり抜け背中を向けたまま、「行け」 と、冷ややかに言い放った。
初めて聞く、殺生丸の非情の声。一瞬りんの動きが止まる。が、すぐに殺生丸の後を追おうとした。だが、その手は無骨な手によって捉えられた。
「殺生丸さま! 行かないで! りんを置いていかないで!」
しかし、りんの叫びを拒んだその背中は、深い闇の中に消えていった。


一度も後ろを振る向くことなく前へ進む主の後をついて行きながら、その背中と残された少女のいる方を、交互に見る。邪見はどうしていいのかわからなかった。
主の心は、りんに関してだけは、わかっていたつもりだった。決して言葉には出さなかったが、態度を見れば一目瞭然だった。何よりも大切なもの、それをご母堂さまのところで確認してきたばかりの筈。血縁者が現れたからといって、そんなにもあっさりとりんを引き渡すなどとは、信じられん。
「せ、殺生丸さま……」 おずおずと、声をかける。しかし、殺生丸は立ち止まることも、振り向くこともしない。いつもの邪見であれば、殺生丸が返事を拒否すれば、それ以上しつこくして主の不興を買うようなことはしなかった。
だが今回だけは、殺生丸さまとりんのためじゃ、そう決意し、再び主の名を呼ぶ。
殺生丸は足を止めた。思わず目を閉じ身をすくめた邪見だったが、何も起こらない。
そうっと、目を開け殺生丸の様子を窺う。殺生丸は立ち止まったままだった。
勇気をふり絞り、殺生丸に尋ねた。「本当にこれでよろしいのですか?」
ゆっくりと殺生丸が振り向く。邪見は、はっとした。
その眸が、曇って見える……。
「人の子は人の世で生きる、私はそんなことさえにも気づかなかったのだ。あの男は、りんを託すに値する人物。ただ、それだけだ」
邪見は言葉が継げなかった。りんを思う心に偽りはないのに、掛ける言葉を知らない主……。
黙ってついて行くしかない。邪見は殺生丸の心中を思い、泣いた。
ほどなく奈落を滅した殺生丸は、邪見とともに西国へ帰還した。


伯父に引き取られてから数年、大名家のひとり娘としてりんは十五の春を迎えようとしていた。
城に来た当初は、ただただ殺生丸が恋しくて、泣き暮らしていた。すぐに迎えに来てくれる、今までのように自分のところへ戻ってきてくれる、それだけを心の支えにして、日々を過ごした。
だが一年、二年と過ぎるうちに、やがて希望は諦めに変わっていった。
(殺生丸さまはもう、来ない……)
そして皮肉にも、幼すぎて、身近すぎて自覚できなかった恋心を、引き離され、なお一層殺生丸を思うことによって気づかされた。
そしてもう、その想いを打ち明ける相手も術も、ない。
殺生丸への想いは、そっと胸の奥深くにしまい込んだ。
これでいいの、これが幸せなの、りんは自分に言い聞かせた。


その日、城内は賑わっていた。勝ち戦から伯父と軍兵が凱旋したのだ。伯父の無事を願っていたりんも、ほっと胸をなで下ろしていた。
伯父が純粋な愛情だけで自分を引き取った訳ではないことを、りんは早くに悟っていた。だが、それを恨む気持ちはない。伯父は物質的な不自由をさせなかったし、時には父親らしい情愛も垣間見せてくれた。りんも次第に伯父に対し、肉親の情を抱くようになっていった。
伯父は終始機嫌が良かった。無礼講とばかりに、下々の者たちとまで酒を酌み交わしている。
暫く酒宴につき合っていたりんは、頃合いを見てそっと宴の場から抜け出し、城の奥座敷に下がった。いつもは数人の侍女がかしづいているが、今夜は彼女たちも宴を楽しんでいる。
りんはひとりの時間を過ごしていた。
そして、心にしまいこんでいた殺生丸を、今夜はやけに懐かしく思い出していた。
もう思い出しては涙を流すこともなかった。締め付けるような胸の痛みも薄らいでいた。こうして想いは風化していくのだろうか。
殺生丸さまは何故自分を人の世に戻したのだろう、りんはぼんやりと考えていた。
伯父が迎えに来たあの日、伯父と殺生丸が何を話したのかは、わからない。断片的に聞こえてくる言葉で、自分の身に何かが起こりそうなことだけを察していた。
そして殺生丸は袂を掴む自分の手を振り払い、非情の声でりんを拒絶した。だが、それが殺生丸の真意とは思えなかった。
その直前に見せた、愛しむような眼、仕種、それが殺生丸の本心と信じたかった。
伯父は薄々にはわかってるようだ。しかし、伯父は語ろうとしなかったし、りんもまた、聞こうと思わなかった。
今となっては、望まない真実を知るよりは、殺生丸との思い出を大切にしたかった。
「りん」 声がして、振り向くと伯父がいた。
りんは居住まいを正し、「ご無事のご帰還、何よりも嬉しゅうございます」 と手を揃え、頭をさげる。
伯父は頷き、目を細め慈しむようにりんを見た。
何と美しく、優雅に、育ったものか。僅かな期間とはいえ妖と過ごした娘である。どんな娘なのかと、最初は危惧していた。
だが、妖を恋しがって泣くことはあっても、自分に向かって恨み言を言うこともなく、政の謀として引き取ったことを責めることもなかった。その優しい心根と、まっすぐな性根、さぞかしあの妖も愛しいと思ったことだろう。
だからこそ、人の世に戻してくれたのだ。
「りん」 それまでの穏和な顔が、一国の主の顔に変わる。「来月そなたは婿を取る。良いな」
りんの身体がはっと強ばる。しかし、静かに頭を垂れると、「はい」 一言だけ呟いた。
伯父は黙って、宴の座に戻っていった。
ぽつんと、揃えた両掌に涙が落ちる。
戦国の女人ならば、当たり前のこと。伯父に引き取られたときから、これが宿命さだめと覚悟してきた。
けれど心のずっと深いところでは、必ず来てくれる、僅かな望みではあったが殺生丸を待っていた。
望みは潰えた。私は、見知らぬ男の妻となる。
りんは、落ちる涙そのままに、今こそ殺生丸と訣別した。