(二)


りんの泣き叫ぶ声を振り切り、背を向けた時から、殺生丸は季節を数えるのをやめた。長い時間ときを生きる妖に、それは無用のこと。りんがいたから、数えていたにすぎない。
暫くはりんの泣き声が、頭から離れなかった。
奈落を倒すことのみに気持ちを向け、りんの面差しを追い払った。西国に戻ってからも、それは上手くいってるように思えた。
所詮、私の情とはこれしきもの、己の薄情さをありがたく思った。
だが、平穏な日々が封印したはずの心のたがをゆるめ、りんの面差しが堰を切ったように、一気に蘇る。一度蘇った面差しは、より鮮やかに殺生丸の心へと流れ込む。
あの笑顔、無邪気な笑い声、己を慕うまっすぐな眼差し……。
まっすぐな眼差し……殺生丸は愕然とした。
りんは、守ってもらおうなどと思っていなかったのだ。ただ己の側にいることのみを、喜んだ。
あの日、りんを呼び寄せたときの、何かを察した不安げな眼、私の袂を掴んだときの必死な眼。背を向けた己にすがる叫び声。
すべては、ただ己の側にいたいがためだった。
私は、取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか? りんの幸せを願った、それがりんを一番不幸にしたのか?この手で、己の宝を手放してしまったのか?
何と愚かな。
殺生丸は振り向きざま、力任せに飾り棚を振り払う。磁器や茶器が壁に叩きつけられ砕け散る。
己の力の足りなさを、心の弱さを、りんのためという言葉で誤魔化していたに過ぎぬ。
砕け散った欠片の最後の一片が動きを止めたとき、静寂の中、殺生丸は項垂れた。
己の勝手でりんに背を向け、再び己の都合でりんを連れ戻すことが、許されるのか?
いっそ、己の心も砕け散ってしまえばいい……。
殺生丸は、己の愚かさを呪うしかなかった。


酒でもいい、女でもいい、この愚かさを忘れられるならば。堕ちるところまで堕ちてもかまわない。それがこの愚かさの代償ならば。
殺生丸は己を呪った日から、以後、感情を爆発させることはなかった。逆に激しい悔いが、感情を押し殺してしまったかのようだった。
「どうしたものかのう……」 殺生丸の母は、傍らに控えてる邪見に言うともなしに、言った。
「はあ……」 邪見は返事に詰まる。
「それで、」 母堂は、邪見に目を向ける。「あの小娘はいかがしておる?」
「はあ……」 余計、返事に詰まる。
邪見は、母堂の言いつけでりんの様子を窺いに、りんのいる城へ出向いていた。もちろん、りんも殺生丸も知らない。お互いがお互いを思っていることは、火を見るより明らかだ。何度、ふたりに進言しようと思ったことか。だが、母堂にきつく口止めされていた。
「どうした、小妖怪。何ぞ、あの小娘にあったか?」 母堂の眼が光る。
「申してみよ」
邪見は暫く躊躇った後、ようやく答えた。
「りんは、婿を迎えることになりました」
「そうか……」
それきり、母堂は黙った。やがて、すっと立ち上がると殺生丸の元へ出向いた。
殺生丸は着物の襟元がはだけたまま、裾も乱れたまま、呆けたように頬杖をつき外を眺めていた。
「何という為体ていたらく。女々しいにもほどがあるわ」
殺生丸はちらっと、横目で見ただけでまた視線を元に戻す。
「何か、用か?」
「あの小娘、婿を取るそうだ」
一瞬、空気が張りつめる。
母堂は今までりんに関して、一切口に出さなかった。殺生丸自らが悟り、事を起こさねばならぬと考えていた。さて……こやつはどうするか。多少面白がってる面もあるが、母堂は母堂なりに、息子の心中を推量っていた。
「言いたいことは、それだけか」
だが、返ってきたのは、感情のない乾いた声だった。
母堂はため息をついた。息子の朴念仁ぶりは今に始まったことではないが、事、ここに及んでまで己の心がわからぬか。
「そなたのことなど忘れて、知らぬ男の妻になる小娘の方が潔いわ。片や捨てられたそなたは、酒と女の白粉の匂いしかせぬ。情けな……」
「出ていけ……」 怒気を孕んだ、低い声で母堂を遮った。
ほう、怒りの感情はまだあったか。母堂はほくそ笑んだ。
「恋に狂うも、また一興……」 艶な言葉を残し、母堂は殺生丸の部屋を後にした。
母の言いたいことはわかっている。己の心も充分承知している。だが、今さらりんの前に行ってどうする?そうする位なら、初めからりんを人の世に戻したりはしなかった。
殺生丸の脳裏に浮かぶのは、幼いりんの姿だけだった。婿を取るほどに、季節は過ぎていたのか。
りん、おまえは幸せでいるか……?
捨てられた、か……。癪にさわるが、母の言う通りだ。りんを捨てたのではなく、己が捨てられたのだ。りんは己のことなど忘れ、知らぬ男の妻となる。
殺生丸はふっと、自嘲する。もう、終わったのだ……。


「小妖怪、もうあの小娘のところへは、行かなくてよいぞ」
どうやら殺生丸は、己の心に答えを出したらしい。それは、母堂が望んでいた結果とは逆だが、それもまた、ひとつの選択であろう。
「えっ、それはどういうことで……?」
もしかしたら、殺生丸さまはりんを迎えにいってくれる……? 邪見は期待を込めて聞いた。そんな邪見の顔を見た母堂は、小さくため息をつく。
「そなたの思惑通りにはならなんだな。小娘が婿を取ることで、ようやく己の心にけりをつけたようだ。情けないきっかけではあるがな……」
「そんな……」
言葉を失う邪見に背を向け、母堂は立ち去った。その背中もまた、邪見同様、何かを失ったようだった。
邪見はその場に座り込み、はあ〜、と大きくため息をつく。
何でこうなるんじゃ……。こんなことなら、さっさと殺生丸さまにご進言すればよかった。
わしが、りんを連れてくるか?いやいや、一度お心を決められた殺生丸さまは、そんなことをしても喜びはなさらんだろう。
殺生丸さまもりんも、これでいいのか? 諦めきれんのは、わしだけか?


表面上は徐々に、かつての殺生丸に戻りつつあった。
すぐにりんを忘れるのは無理だろうが、それは時間ときにまかせ、自堕落な日々からは抜け出していた。
そんな時――。
騒々しい足音に、殺生丸は読んでいた書から顔を上げ、眉をひそめる。姿は見えずとも、邪見が己の部屋に向かって走ってくるのがわかった。
案の定、邪見は勢いよく殺生丸の部屋の障子を開けた。
「せ、殺生、丸さま……!」
息が上がって、次の言葉を発せない邪見を一顧し、再び書に目を落とす。
「りんが、し、死ぬかもしれません!」
書をめくる手が止まる。ゆっくりと顔を上げ、邪見を睨む。
「もう一度……言ってみろ」
「りんの婿になるはずだった男の国が裏切って、りんの城を攻めて、その……人間どもが言うには城が落ちるのも時間の問題だと……」
母堂に、もうりんのところに行く必要がない、と言われたが、諦めきれない邪見はこっそりと、りんの城へ行ってみた。
そこで目にしたものは、多数の砲弾が撃ち込まれた城の外壁と、あちこちから立ち上る白煙だった。驚いた邪見は、近くにいる人間を誰彼かまわず捕まえて、事情を聞き出した。
りんの婚姻を間近に控え、手薄になっていた守備の虚を突かれ攻め込まれたという。約一月近く籠城戦が続いたが、だが間もなく城は落ちるだろう。
「そ、それでりんは、いや、大将や姫は、どうなる?」
「多分ご自害だな。この城の姫も、あのご気性からすると、殿と一緒に……」
目をむかんほど驚いた邪見は、すぐさま西国に戻った。
話を聞いた殺生丸は、じっと考え込んでいた。
今さら何を考えるんじゃ! 邪見はこの主に仕えて初めて、怒りを覚えた。
「殺生丸さまが行かぬなら、わしが助けに参ります」
「きさまには、無理だ」
「わしだって妖怪の端くれ。人間ごときの十人や、二十人……」
「だが、千や二千は無理だろう」
そのどこかからかってるような口調に、邪見はえっ、と主の顔を見る。
殺生丸はその顔に、微かに笑みを浮かべ、床の間の剣を手に取る。妖力で鎧を纏う。
「どうしても、と言うのなら止めはせぬが」
そう言い残し、あっという間に空へ駆け上がった。
「殺生丸さま……」
嬉しいのか悲しいのか、もはや邪見にはわからなかった。ただ涙がいつまでも止まらなかった。


先ほどまでの喧噪が止み、城内は水を打ったように静まりかえっていた。闘い疲れ、傷ついた兵士たちは、もはや一歩も動けなかった。
りんも疲れ果てていた。
あっ、という間だった。守備の虚を突かれ、反撃の機さえ持てず退却を余儀なくされた。敵は雪崩れ込むように領内に攻め入り、とうとう最後の砦である城下まで追い詰められた。
りんはすぐさま打ち掛けを脱ぎ去り、たすきをかけ、髪をひとつに結わえ鉢巻きをしめる。
「姫さま、何を!」
「私も、闘います」 そう言って槍を手に取り、城内に侵入しようとする敵を薙ぎ払った。
だが、こちらの劣勢は明らかで、籠城戦に入って一月余り、すでに食糧もつきかけていた。
りんは暮れゆく空に目を向け、そっと胸に手をあてる。そこに収められた懐刀を、握りしめる。
覚悟のとき――。
ふと、城外が騒がしいのに気づく。日暮れとともに一旦終了した戦が、再び始まったのか? それとも、勝利を確信した敵軍勢が前祝いでも始めたか?
どちらにしろ、りんにはどうでもよかった。暁光を見ずして、この命は散るのだから。


千を超す軍勢に、さしもの殺生丸も苦戦していた。血糊がついた剣は重く、剣をふるう腕が痺れる。攻撃が徐々に防御に傾く。息づかいが荒くなる。
だが、こんな所で手間取ってるわけにはいかない。
りん、私が間違っていたのだ。おまえの命が尽きるその瞬間ときまで、私はおまえとともにあるのだ。
そして、その命が尽きるとき、私はこの腕の中で、おまえを見守っていよう。
カチッと、背中に銃口が向けられた。殺生丸は瞬時にかわそうとしたが、疲れ切った身体がいつもの俊敏さを鈍らせ、弾が肩をかすめる。血が滲む。
渾身の力を振り絞り、敵勢に向けその眸を赤く光らせる。
敵が怯んだその一瞬、殺生丸は城内目掛けて、一気に走り抜けた。
城内は異様な臭いに包まれていた。硝煙と血と死人の臭い。りんの匂いを捉えられない。城内にいる者に聞こうにも、すでに目は虚ろで、口も利けない状態だった。とにかく、片っ端から探さなくてはならなかった。
どこにいる、りん!
おまえが私の側にいることのみを望んだように、私もおまえとともに生きることこそ、喜びなのだ。
だから返事をしてくれ、りん!
「りん!」
微かに殺生丸の声が聞こえたような気がした。やがてそれは、確かな声としてりんに届く。
はっとして、振り返る。
りんの匂いを感じた。匂いが途切れぬうちに、その先に向かって走り出す。
りんが部屋を飛び出そうとしたのと、殺生丸が部屋に辿り着いたのは、ほぼ同時だった。
白装束を纏った美しい娘がいた。細腰に巻き付く帯が、身体の曲線を優しく描いている。
幼いりんしか知らない殺生丸は、しかし、それこそ己が求め続けた少女だと確信した。
りん!
どちらが先に手を差し伸べたのか、どちらが先に唇を求めたのか。
年月を経てもなお、断ち切ることの出来なかった絆が今、幾千の夜を越え、ふたつの魂は重なる。
そして――。
時は沈黙し、ふたりに返すかのようであった。


「りん、帰るぞ」
あの日振り払った手を、今度は二度と離すまいと、握りしめる。
しかしりんは、殺生丸の手に我が手をそえ、静かに首を振る。
「りん……?」
「伯父上とともにこの城で果てるのが、ただひとつの恩返し……」
「それは違うぞ、りん」
りんを遮り、伯父の声がした。
数々の戦でその名をあげ、功をあげてきた強者は、今やすっかり憔悴しきっていた。それでもまだ、眼には力強い光を宿していた。
「おなごならいくらでも生き延びようものを、城を枕に死す覚悟、わが姪ながら天晴れ、と思っていた。それがそなたの望みなら、若い命を絶つもよしとした」
りんの両肩に手を置く。
「だが、殺生丸殿が来たとなれば、話は別だ。明日の未明にも、敵は一斉攻撃をしてこよう。城が落ちればそなたの役割など、もうない」
冷たい言葉の裏に、愛情が漂う。
りんは気がづいた。あの時、殺生丸も同じ気持ちだったのだ。非情な声の裏に、深い愛情があったのだ。幼すぎて気づかなかっただけなのだ。
そして、殺生丸に目を移す。
「その昔、私は貴殿に 『人の子は人の世で生きるが道理』 と申した。だが、妹夫婦が死んだ後、りんが村人から受けた仕打ちを聞き、今また裏切った男が言い放った言葉、『妖と一緒にいた娘を本気で娶ろうと思っていたか』。 そんな人の世の醜さを充分承知しながら、貴殿から引き離したことを、ようやく今悔いている。相手を思う心に、人も妖もない。貴殿こそが、りんの絶対的幸せ。二度と人の世に戻すでない」
最後の言葉は、まるで父が息子に諭すかのようだった。
この男には敵わぬ。これほどまでに器の大きな男。政略のため引き取ったとはいえ、最後の最後に示す、りんへの深い思いやり。これが人間どもの言う、愛なのか。
殺生丸はりんの肩をさらに抱き寄せる。ならば私は、この男を超える愛を、りんに与えよう。
「さあ、もう行け」
それぞれが、無言で別れを告げた。


殺生丸とりんは夜闇に紛れて、城を脱出した。ほどなく、背後から凄まじい爆音が響く。
りんは、ぎゅっと眼を閉じた。
己の本懐を遂げたひとりの武将が、その生涯をかけて築き上げた全てとともに、紅蓮の炎の中、散っていく。
その見事な生き様を、殺生丸は心に刻んだ。
肩をふるわせ、嗚咽の止まぬりんを、己の胸に抱き寄せる。
生涯かけて守るべきもの。